将来の自分

今日は久しぶりに社会人になる少し前からつながっている友達と食事。串揚げを食べる。
当たり前ながらみんな今に至るまでそれなりに歳を重ねているのだけど、ほぼ同じ認識だったのが、小さい頃に想像していた今の歳の自分と、実際にその歳になっている今の自分というののGAPがあるということ。
小さい頃に想像していた今の頃の自分は、もっと洗練されていて、人として成熟していて、なんていうか”オトナ”な存在だった。
でも実際になってみると、何が変わったんだろう・・・そんなに変わっていないような気がする・・・というのが正直なところ。なんだかまだまだ若いというかアオいというか。未成熟だという感覚。
それが良い悪いという話ではないのだけど、夢や理想というのも気をつけないとそういうものになってしまうのだろうなと感じる。なんとなくこんな感じかな、と思い描いているだけでは、実際に今後歳を重ねた時に、”変わらないなあ”でタイミングを逃していってしまう、そんなものなのかもしれない。
今描く将来の自分は、重なりたいものであるはずだし、人生の中で重なるべきものであるはずだ。
でもきっと、そうして意識して重なり続ける努力をしていても、その中でまた視野が広がって、見えていなかった部分が見えてきて、さらに理想も大きなもの、遠いものになっている、そんなものなのかもしれない。
とりとめないが、ふと思った。

誰の目的か

今日のあるミーティング。資料を用意して臨む。過去の経緯を確認しながら話しに入っていく。
何かが違う。
相手の関心が、事前に聞いていた内容と違う。
直接話をするのは始めて。初対面。人伝いで状況を想定して仮説を立てて臨んだ。
そもそも聞いた人が解釈を間違えていたのか。
自分が聞き間違えたのか。
使う語彙に込める意味合い、ニュアンスに込める意味合いが異なっていたのか。
期待値が違うのだ。
どうミーティングを組み立てるか。
どうゴールにたどり着くか。
頭の中でいくつかの考えをめぐらせながらプレゼンを進める。質疑に答える。
チームで臨んでいたのでいろいろサポートしあいなが、ほぼゴールにたどり着いた状態でクロージング。
仕事を引き継ぐときに明確にしておくべきことだったり、
用意するべき資料・シナリオの幅だったり、
具体的なコミュニケーションの流れのつくりかただったり、
いくつかその時点で学ぶこともあったが、後々ふと思った。
このミーティングの目的でありゴールは誰にとってのものだったのかと。
上記のように自分がゴールや目的に(最短距離で)たどり着こうとしていて、なんだか話がずれていると感じているとき。
それは相手が間違っているのか?
自分の設定したゴールや目的がずれていたのではないのか?
考えるべきは、自分が設定したゴールや目的への筋道に相手を乗せようとすることではなく、軌道修正でもなく、ゴールや目的そのものではなかったのか。
相手にとっての価値を考えて臨んだものの、気がつけば自分の仮説に囚われていた、自分のロジックに囚われていた、プロダクトアウトになっていたのではないか。
次に活かしたい。

相手の中に気づきを

新しい経験といえば先日の緊張の経験に加えてもう1つ。
詳細はさておき、その経験では、相手に自発的に気づいてもらう、考えてもらう、答えを出してもらう(これが答えなんだと主張できる状態になってもらう)というのが自分の中でのチャレンジだと思っている。
学ぶ内容を明確にして、それをそのままメッセージするのは難しいことではない。でもそれでは生きた学びになりにくい。学ぶにとどまらず、それによってどういうシーンがどのように変わるのか、変えないとどんなことになってしまうのか、いうところまでを体で感じることができない。
徹底的に相手の頭を使ってもらうこと、いざというときにはこんがらがった思考を引き取って軌道に乗せてあげること、そのための適切な質問、自分なりの仮説、そもそもの地力。後は最近思うのだけどどこか”逃げ道”をつくるというのが大切だ。ロジックのエラーを突き詰めていくのはそれはそれでいいのだけど、それ=相手を追い詰めていることではない、人格を否定しているわけではないというのは、特に文化の違う相手に対しては意識的に伝えていく必要がある。
例えば1つは笑い。とぼけた感じで鋭い質問を投げる。
相手に精神的にリラックスしてもらえる。その余裕は自己否定を避ける緩衝材になるし、相手を否定してるんじゃないという雰囲気をつくれる。シリアスに鋭く質問を投げていたら相手は余裕が無くなる、不安や恐れや怒りや自己否定の気持ちがぐるぐるまわりはじめる。わからないといけないんだとなって、わからない自分を否定したくなる。考える余裕を失って結果そこで思考停止 + 一連の経験は失敗としてタグがつけられる。
勿論ケースバイケースだけどチャレンジとそれがうまくいったときのシーンを思い描きながら進めていきたい。
生きた学びにしていきたい。自分にとっても。

久しぶりの緊張

月曜日は久しぶりに緊張するシーンがあった。突然スケジュールに入ってきたものであったし、あまり経験の無いことだし、なるほど緊張って簡単にコントロールできるものじゃないなーと思いながら緊張。新鮮だ。
やはり何事も経験なのだなと思う。特に自分の中で新しい(過去にない)と感じるものについては。
その初の経験は2つのものを与えてくれると考えている。
1つは、経験そのもの
1つは、レセプター
その経験自体から直接学ぶことができる。そしてその初の経験が類似の経験について具体的に想定し備えることができる、疑似体験して学ぶことができる、そんなレセプターを与えてくれる。
経験の幅、広げていきたい。
ひとつひとつの経験をしっかりと味わっていきたい。

できそこないの男たち

できそこないの男たち
福岡伸一 (著)
今春に読んだ『生物と無生物のあいだ』の著者の作品。
『生物と~』程のミステリーと呼ばれるような内容とは少し違うが、表現も平易で物語として非常に楽しめるし、素直な気づきもある。面白く平易な例えをもって書かれているので読みやすい(逐一厳密に理解しようとし始めると読みにくいのだと思うが)。
印象に残った部分は後ほど。
[2008/10/29 23:58 updated]
ストーリーや面白いところが見えない程度に。

P.37
教科書はなぜつまらないのか。それは事後的に知識や知見を整理し、そこに定義や意味を付与しているからである。(中略)教科書はなぜつまらないのか。それは、なぜ、そのとき、どのような知識が求められたのかという切実さが記述されていないからである。そして、誰がどのようにしてその発見に到達したのかという物語がすっかり漂白されてしまっているからである。

P.54
かつての私もまた、初めて顕微鏡を覗いたときは、美しい光景ではあるものの、そこに広がっている何ものかを、形として見ることも、名づけることもできなかった。(中略)つまり、私達はしっているものしか見ることができない。