そして実家に帰るとかなりの確率で海にいく。夏に限らず、昼夜を問わず、僕は海が好きだ。餃子のように無心で臨める単純作業に身を投じるのと同様、佇んでいても退屈しない、かといって気分が高揚するわけでもない、ただ自分がそのままで居られる場所というのも心を緩めるのに適していると思う。
僕にとっては写真も然りだ。

家族と自分の覚悟と。

この週末は、体調を崩して入院している祖母のお見舞いのために帰省し、先ほど帰ってきた。祖母の体調は随分良くなっていて、退院の目処もついていた。一安心。
一方で、高齢であり、かつこれまでずっと健康できていた人だから自分の体調が崩れたときの不安、入院するということに対する不安、自分の健康が崩れたと解釈してしまうことによる自信喪失といったことも少なからずあったと思う。そういった、これまで健康であることが当たり前であった、かつ今は不安やフラストレーションを抱える祖母のお見舞いであり身の回りのお世話をしていた家族の疲れもあったと思う。
祖母が退院した後、入院する前と同様のレベルの生活が送れるかどうかというのが気にかかるところ。少なくとも完全に治るものではなく、うまい付き合い方を見つける必要のあるものらしいのでなにかしら異なる点はでてくると思う。そういったこれまでの日常との変化に本人含め家族であり、離れて住んでいる自分でありもそれぞれを調節していく必要があるのだと思っている。
日常の中の些細なことに対してとまではいかないが、自分に何かしらの変化であり影響が及ぶことがわかった際に、もしくはそれらが実際に及んだ際に、自分がどこまでの覚悟を持てるか。あれもこれも変えたくない、これまでのままの自分でありたい、いくらそう思ったって何も状況は変わらない。外部環境が変わった時点で自分(内部環境)を変えずして(変えたとしても)これまでどおりと行くわけがない。
ならその中で自分が守るべき領域であり度合いをどこと定めるのか、そしてそれを実践するために自分がどれだけの資源を投入することに覚悟を決めるのか。
相手がある話なら尚更。そもそも自分だけで上記を決めることさえできない。そのなかでどこに線を引き、覚悟を決めるのか。
僕が生まれてから生活を共にした家族の中で、今僕だけが一人暮らしをしている。そういう環境にあって自分がすべきこと / 自分にできることを明確にして、それはやるのであるという覚悟を決めておきたいと思う。
大げさな話に聞こえるのかもしれながそう思う。上記を明確にせず、ただ変化を受け入れられずに嘆く、変化に流されるというのは避けたい。自分の人生の手綱は自分で握り続けたいし、大切な家族がそれぞれの人生の手綱を手放して流されてしまうのも避けたいし。
特別気負う必要はなくて、ただ覚悟を決めて、行動するだけで良いのだし。
#観点は違うが、@yokichiさんのブログのこのエントリーを思い出した→”Willing to lose

選択する力。選択への責任。自分の範囲。

今こうした事態にあって頭の中に改めてあるのは、レスポンス・アビリティ、レスポンシビリティ。外からいかなるインプットを得ても、それに対する自分のレスポンスを選択する能力は自分にあるということ。その自分のレスポンスの責任は自分にあるということ。
そして何事においても自分の範囲があるということ。コントロールできないこと、直接コントロールできなくてもなにかしらの影響を及ぼせること、自分でコントロールできること。
今こうした事態にあって、いつもより丁寧に上記を考え、自分の中に刻んでおく必要がある。
いくつもの情報に触れられる中で、自分は何を選択して受け入れるのか。そしてその結果何をレスポンスするのか。情報に流されて混乱することも、情報の矛盾を探して誰かを責めることも自分の選択であり自分の責任。自分がコントロールできない範囲の情報はそれとして、自分が影響を及ぼせる範囲、直接コントロールできる範囲に集中して、その影響力でありコントロールを行使するのも自分の選択であり自分の責任。
ここを曖昧なままにしていては、人によっては多くの情報にひたすれ触れ続けることで、そして起こった出来事の大きさの前に自分の無力さを責めることで、心を消耗させてしまうことが起こりやすい状況にあるようにふと思えたので。