六義園の夜桜 2/2

枝垂桜をこえて歩いて行くと広がる庭園。そしてその奥にはまた桜が。
ずっと桜を見ているとたまに眼に映る緑を眩しい。
閉園ぎりぎり。帰りにまた枝垂桜の前を通り、すっかり人の少なくなった、来たときと同じ道を急いで帰った。

六義園の夜桜 1/2

土曜日は六義園へ夜桜を見に行く。

六義園というところへは初めてであり、夜桜がキレイらしいという以外に情報はなかったのだけど少し調べてみると由緒あるところのよう。

入り口の石灯籠の灯りを過ぎると、所々に灯が焚かれている以外は暗闇。その道を抜けるとそこにはライトアップされた枝垂桜を主役に素晴らしい夜景が広がっていた。

 

Sakura

今日は仲良くしているコンサルタント(というか友達というか)に誘ってもらって恵比寿で食事。幹事の方がコンセプトを”花見”としてくれていたらしく、お店の外には満開の桜。
少し遅れていたにもかかわらずついついお店に向かう途中でシャッターを切ってしまう。
やはり桜はいい。
会もとても面白かった。

たまには

今は出張中。
今日はミーティングが終わってからは個人のワークだったので、ホテル近くのスーパーで夕食を買って帰る。そこで普段は好きなものだけを食べるということはあまりしないのだけど、今日は贅沢してそれをやってしまおうと決めた。
私の好物は、

すし
たこやき

栄養のバランスやカロリー、そもそもの量を考えると二つを同じタイミングで摂ることは難しいし体に良くないのだけどたまにはいいかなと。
ホテルの部屋で一人幸せ。
写真は今日ミーティングをしたオフィスから。見晴らしもよく、何より夕日がきれいだった。

生物と無生物のあいだ

生物と無生物のあいだ

福岡 伸一 (著)
プロジェクトを共にしていた極めてシンプルでロジカルな方が”これは秀逸だった”と言われていたので手にした一冊。

最初から1/4程度は本に込められた意図をうまく解釈することができず淡々と読んでいたが、途中から著者の世界に入り込み一気に読み終えた。今ここに至ると、本の帯に書いてある、

”読み始めたら止まらない極上の科学ミステリー”

というメッセージにもうなずける。

”人は瞬時に、生物と無生物を見分けるけれど、それは生物の何を見ているのか。そもそも、生命とは何か。”という大学時代の生物学の時間での教師からの問いをプロローグに物語は展開する。”研究”という世界の描写を入り口に、生物のミクロの世界を展開し、その後自身の研究も織り交ぜながら、問いに対する解を論理的に、実際の研究成果を辿って展開する。そしてエピローグでは情緒的には幾ばくかの切なさや生物への尊厳を含めて解を結ぶ。

ストーリーの素晴らしさ、生物とは何か?生物と無生物の境界はどこか?という純粋な好奇心から素晴らしい経験ができたが、後半、頭の中には2つの考えというか気持ちというかがあった。1つ自分の、自己中心的な考え方への気づき。1つは言葉の裏にあるもの-事実-の重みだ。

自分の自己中心的な考え方、それは、

観想力 空気はなぜ透明か
三谷 宏治 (著)

のタイトルになっている問いかけに答える過程で味わったものと同じ感覚だ。
そして言葉の裏にあるもの-事実-の重み。それは、同じ結論を言うにしても、仮説や思いつきにとどまっているものと裏に事実の積み上げがあるもので全く異なるということだ。

言ってみれば当たり前のように聞こえるが、発想するだけで終わってしまって検証をしない人というのは案外いたりするものだ。自分の言葉が全て検証済みかと言われれば自分もそうとは言えない(勿論全ての場合の発言が検証済みである必要は無い。何をもって検証済みというのか、その閾値も異なる。)。

発想力が豊かな人というのは存在するし、誰しも何度かは鋭い発想というものをしたことがあると思う。その時に大切なのは、周りが異なる発想をしても/異なる発想を支持しても、それを自分が支持できないのならば、自分の発想を貫くのであれば、徹底的にその発想の確からしさを検証することだ。

そのためにくぐりぬけるゲートがあるのなら、それを通るために必要な活動をすることだ。自分の発想にあぐらをかいて、他の発想の検証結果をみて笑っているというのはあまりにもったいない。

発想は、その行為自体をするためにするのではなく、それを現実に形にするためにするものなのだと思う。

話がそれてしまった。

印象に残っている記述の一部を抜粋する。(さすがにエピローグからは抜粋しないが)ストーリーの一部が理解できてしまう可能性があるので、それを避けたい方はとばしていただければと思う。

そうなのである。やはり、私たちには何か重大な錯誤と見落としがあったのだ。重大な錯誤とは、端的にいえば「生命とは何か」という基本的な問いかけに対する意識の浅はかさである。そして、見落としていたことは「時間」という言葉である。

機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。
生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れにそって折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。