経験が想像力を補う

相手の立場を思いやるに際していかに想像力を働かせるかは大事だ。想像力のみに頼らずとも、自分の経験がそれを補う。
身近なところでメール。
書くのも読むのも、日本にいる時と比べて英語の比率が高い。読むのに時間がかかる。一方で英語での自分の生産性は日本語でよりも低い。メールを読むのに使える時間は減らしたい、けど読むのに時間はかかる。
結果、処理時間がメールの書かれ方に依存する。

・Subjectの冒頭に、アクションが必要なのか否か & dueが書いてあるか
・Bodyの冒頭にアクションアイテム & dueがリストされているか
・そのアイテムごとに構造が詳細化されているか
・その構造はアイテム間で一貫しているか(due・概要・注意事項・reference url/material のオーダー等)

これによって、読み手に”Subjectだけ読めば十分か”、”Bodyの冒頭を読んだ段階でOKか”、”詳細に下る必要があるか”の選択肢を与えられる。次に構造がクリアだと内容が想定できるので理解のスピードが高まる。読み手が費やす時間を減らせる。
こういった点を自分が感じるようになるとメールの書かれ方を気にするようになる。そして散見する。上記の書かれ方とは異なるメールを。

・Subjectはクラブの名前と概要でアクションの有無がない
・冒頭はメールの背景だったり重要性だったりが語られていて中身がない
・求めるアクションやdueはその文章の中に散りばめられていてまとめられていない
・構造化しているが結局それぞれの括りの中が散らかっていて(アクションをサポートしない言葉が多く)全部読まないと何を求めているのかわからない、もしくは読んでもわからない

どこまで読んだ段階でDoneとできるのかその判断ポイントがつくれない。読み手は自分の頭の中で要するにいつまでに何をする必要があるのか/ないのかを解釈する必要がある。読み手が費やす時間は増える。
日本語であればこれほど気にならない。構造化された内容より時間がかかるにしても許容できる負荷で理解できるからだ。それが英語となるととても気になる。理解に要する時間を許容する余裕がないからだ。
ここで考える。日本語であっても、相手に余裕がなければ、英語のメールに自分が感じたようにちょっとした非構造的なメールは許されないと。言葉が奪う時間が他のスケジュールに奪われるというだけで状況は同じだから。そして、相手の忙しさであったり他のスケジュールを慮る想像力があれば、こういうメールは書けないはずだと。
いざ自分がこういった状況を経験すると、相手を一層慮ることができる。これまで具体的に想像してこなかった点も自分の経験をもって補うことができる。
ということで、改めて気をつけていきたい。

それでもあなたを愛する

中間試験では各科目の最初にインストラクションがある。つきなみなもので、時間は何時何分から何時何分まで、携帯の電源は切って下さい、表紙の注意事項を読みながらしばらくお待ち下さい等。
そんなインストラクションにあってもFinancial Accountingの教授は笑いと拍手をさらった。
上記、つきなみな注意事項を話した後で、
”カンニングすることは死を意味すると思って下さい”
と笑いを誘い、次に、
”このテストの結果について、一切の心配は不要です。あなたのテストの点数がどれだけ悪くても、それでも私はあなたを愛していますから”
と笑い&拍手をさらった。
これが彼の宗教観であり価値観からくる言葉なのか場を和ませるための言葉に過ぎなかったのかはわからない。が、この一言でピンと張り詰めた会場の空気は和み、リラックスした状態でテストに臨めたのではないかと思う。
試験の結果は既に返ってきている。
彼の愛はありがたいものにかわりない。が、返ってきたスコアは、僕にさらなる学習を、強く、強く促す。

誰のためのプレゼンか

早いもので今日Term1の中間試験が終わった。Term5まであるので今日でMBAの10%が終わったことになる。
試験の代わりにチームアサインメントを課すクラスもあり今日はそのプレゼンテーションもあった。各チームのプレゼンを見ていて感じたのが誰のためのプレゼンか、誰にフォーカスすべきか、という点だった。
結論から言えば、プレゼンは聞き手にフォーカスすべきだ。誰かに対してプレゼンをする、それはその人に対して起こして欲しいアクションがあるからだ。従って、どうすればその人が気持ちよくこちらの望むアクションをとれるか、そこに集中すべきだ。
1. プレゼンテーションの準備をする際はじめやるべきことは、プレゼン後とって欲しいアクションの決定だ
2. 次にやるべきことは、聞き手の理解だ。聞き手がアクションを起こすのに必要な要素は何か。それらのうち聞き手が既に知っていることはないか?あるとしたらそれは何か?プレゼンテーションを通じてどの要素を提供できればよいのか。
3. 次はプレゼンの場所の理解。広さはどの程度か?聞き手の配置はどうなっているのか?使えるファシリティは何があるのか?
4. 次にプレゼンのデザインだ。それを理解してもらうために / 心深くに届けるためにどのようなメッセージをどのようなストーリー構成で伝えられればよいか、伝える際に使うべきビークルは何かを決める。
5. そしてプレゼンの道具づくりだ。KeynoteやPowerPointを使うなら、この段階でアジェンダと各ページのヘッドラインが決まっているはずだ。それをサポートするためのボディをつくりはじめる。
6. で、それをどのように伝えるかプレゼンテーションの練習。そこで話すスピード、声のトーンや抑揚、立ち位置、身振り手振り、アイコンタクトetc…の練習。最終的に、資料に自分が喋らさせられるのではなく自分の言葉で話しながらそれに資料がついてくるように感じられる状態までもっていく。
面白いもので、コミュニケーションのクラスで自分の身振り対するフィードバックをもらい練習しているからか、プレゼンテーションでの自分の振る舞いがダイナミックにできる人程そこに拘っていたように感じられた。
練られたGrabber、間のとり方、声の抑揚の付け方、空間の使い方etc…
しかしそのようなテクニックのみではプレゼンテーションの価値は多くは増やせない。上記の通り、自分の振る舞い以前の段階でプレゼンテーションの価値の大部分が規定されているからだ。そもそも聞き手を理解せずして、相手へ期待するアクションとそのための自分たちのメッセージ、ストーリーなくしてGrabはできない。
不明確な聞き手に望むアクション、曖昧なアジェンダ、支えるメッセージも構造も練られていないファクト、小さ過ぎるフォント、1ページにすし詰めにされたグラフ。
それを背負って、ただ雄弁に、ダイナミックに語りかけられる聞き手は何を感じるだろうか。
プレゼンでフォーカスすべきは聞き手だ。自分のパフォーマンスではない。自戒の念も込めて。