たかがフレームワーク、されどフレームワーク

3rd Termのクラスも進む中、ほぼ全てのクラスで何かしらのフレームワークが登場する。フレームワークを好む学生が多いからか、フレームワークそのもの対する質問が多数でることがある。そんな時、ある教授が言った。

これはあくまでフレームワークに過ぎない。分析であり意思決定でありのツールのひとつに過ぎないのだ。それに固執して、使うことを目的にしてはならない。

その通りであると思う。ただ、フレームワークを提示し、それに対して質問が集中した時のこたえとしてはふさわしくないと考える。
こたえるべきは、なぜそのフレーミングなのか、という話ではないだろうか。どのようなファクト・ロジック・前提の上でその要素の切り方、レベルの揃え方/ブレイクダウンの仕方、並び方になったのか。
上に書いたように、フレームワークはツールに過ぎない、使用することは目的たり得ない。であればどういう状況で使うべきツールであるのか、また状況に応じてどのように形を変えられる/変えるべきものなのかを語った方が良いのではないか。そこを理解できてこそツールに踊らされることなく、使いこなすことができるようになるのではないか。
また、聞き手は教授がそこに言及せずとも上記のように自身の中でフレームワークを咀嚼し身に着けていくスタンスが求められると考える。
フレームワークとはなんとなく要素を区切って頭文字をとって語呂よく並べただけのものではない。それを提示する裏にはその価値を裏付けるだけのファクトでありロジックでありが存在するはずなのだ。そして要素が具体的になればなるほどそのフレームを活用できるシチュエーションが限定されるものなのだ。
何かしらのイシューに答えるときにあるフレームワークを使ったとする。なぜそのフレームワークが最適なのか?という問に自分のロジックで答えることができることが必要だ。なんとなくマーケティングだから4Pとか、グローバリゼーションだからCAGEとか、そんな軽薄なものではない。
一方で、思考の漏れを防ぐ意味で手元にあって損のないツールでもあるのだけど。
ふと思った。

「たかがフレームワーク、されどフレームワーク」への1件のフィードバック

コメントを残す