全部ひとりで背負ってみると強みにも弱みにも気づく

自分の過去を振り返るとキャリアにおけるほぼすべての経験をチームでしてきたと思う。メンバーであった時もあればリーダーであったときもある。何にせよチームで動いてきた。チームでミッションを背負うと、その実現のためにアウトプットを定義して、タスクを考えて、分担を決めて、動く。そういった経験を終えるごとに、自身のパフォーマンスを省みる。

うってかわってひとりで全部背負ってみると強みも弱みも気づく。

もともとチームの中で自分が強みを発揮できるタスクを背負ってきたからなのか、弱みを避けてきたからなのか、自分の弱い分野を得意とする仲間が補完してくれていたからなのか。これまでチームの中では気づかなかったところに、ひとりで動くと気づく。

第一義に、一人で背負うということは自分一人で全て責任を負うということだ。責任を負うということはそれを全うするために適切な手段を選び実行し無くてはならないということだ。矛盾するようだが、そのためであればチームでない他人であっても必要とあらばその分だけ巻き込まなくてはならないということだ。

その難しさを経験して、そんな中で自分のパフォーマンスがいかにチームで動くときとくらべて低いかを自覚して、ひとりで何かを背負ってもがいている人がいたらその人をサポートしたいと強く思うようになる。その環境にいる人のパフォーマンスが思わしくなくとも – それは結果に責任を追っている以上結果が悪ければその人の責任であることにかわりはないが – 当人を責めずに他の解釈をして助言をするなり何なりの対応ができるようになると思う。

都合がいいような気もするが、まあ人間こんなもんだろうという気もする。経験が自身の想像の及ぶ範囲を広げてくれる。その想像力が他人を慮る力になると思う。

[書評]不格好経営

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不格好経営―チームDeNAの挑戦
南場 智子 (著)

どうしても読みたかった。そして読んでよかった。

マッキンゼーを辞してDeNAを立ち上げ今日に至るまでを、南波氏らしい軽快にして濃密な文体で綴っている。胸を熱くするシーンあり、思わず吹き出して笑ってしまうシーンあり。ただ、こうして彼女たちチームDeNAの、度重なる挑戦と毎度のように迫り来る苦難、それらを乗り越えその経験を糧に成長し、更に大きい挑戦をする、というノンフィクションにひたすらに触れていると、自分を自然と省みる。

彼女の考え方で印象に残っていることが3つある(自身の理解を書いているので実際は著者は異なる言葉遣い・表現をしているだろうと思う)。

1つは個人のキャリア、成長について。自分が成長できるかという視点で仕事をみるな、仕事にあたるなということだ。それは後からついてくることであり、目的たり得ない。目的は別にある。ということだ。

そう思う。社会人になって間もない頃、今思えば自分の成長が最大の関心事であった時代がある。でもこれまでの経験を振り返ると、自分が最も成長したと思える体験は、その渦中にいるときは自分の成長なんて微塵も意識していなかった(できる状況になかった)ものだ。だからといってそれを求めて修羅場に入るのもおそらく何かが違う。見ているものが違うのだ。

 

1つはコンサルタントと事業家の違いについて。彼女は本書の中で経営者になるために戦略コンサルタントになろうとする人を、プロゴルファーになるためにゴルフレッスンのプロになろうとしているようなものだ、と言う。そしてできるコンサルタントはその違いをわかっている。コンサルタントだからできないこと、できることをわかった上で仕事にあたっているという。

納得する。コンサルタントを離れ留学し、いろいろな経験を得ている。それらを通じて、上記に気づいた。自身がいざひとつの事業テーマに責任を負う立場になってみると、コンサルタントとしてそういう立場にあるクライアントに接していた時とは多くのことが異なる。自身がドライバーを握りフィールドに立ち、ボールを打ち、スコアに責任を負う立場と、それをいろいろな角度から眺め、情報を集めて、どっちを向いて、何で、どう打つべきですよ、と助言する立場ではあまりに違う。それにしてもこの喩えは秀逸だと思う。できること、やるべきことがプロゴルファーとプロコーチで違うことも一目瞭然であろうし、そのために必要なスキルが異なることも白明だろう。

 

そして1つはチームワークについて。彼女はマッキンゼーのマネージャ向け研修でメンバーを16種類のタイプに分けて接し方を分ける手法を米国で学び、それに嫌気がさして初日が終わってから日本に帰っている。その理由は、なぜ自分が寝食を共にするほど長時間共にいる仲間を、たかだか16種類に分類してその接し方に当てはめる必要があるのか、というものだった。そして彼女は自分たちが最初の成功体験を迎えた時の、ゴールが全く異なる個々人が重なり、最高の笑顔になる瞬間からチームワークでありリーダーシップとはこういう瞬間をいかにつくりあげるかなのだという考え方に至っている。

その通りだと思う。僕も昨年MBAのオリエンテーションにおいてクロスカルチャーからなるチームのパフォーマンスをいかに高めるかという話の中でいくつかの思考パターンや表現のパターンを学んだ。しかし強く違和感があった。目の前にいるメンバー、毎日を共に過ごすメンバーがいるのに、なぜ彼らから学ぶ前に先入観をもたせるような情報を与えるのかと。彼らが個人的に、そして文化的にどう異なるかは、チームワークを通じて学ぶものではないかと感じたからだ。これに関しては、IESEでの1年を終えてのエントリーのチームからの1番の学びとしてまとめている。

 

全体を通じて南波氏のDeNAであり仲間であり、そしてここに至るまでにお世話になった方々へのたくさんの愛であり感謝を感じる。

僕も自分の道を全力で行かねばと気持ちを新たにする。

[書評]永遠の0

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永遠の0
百田 尚樹 (著)

久しぶりに和書を手にした。小説を読むのも久しぶりであったと思う。600ページ程ありボリュームを感じていたが結果一気に読み終えた。読んだのが夜、自分の家であったこともあり素直に世界に入ることができたのだと思う。終盤は嗚咽しながら読むこととなった。

[以下内容に触れますぼかしていますが。ネタバレ避けたい方とばしてくださいますようお願い致します]

これほど涙を誘われた理由は、宮部が一貫して守り続けていたものの守り方を、最後の最後で変えたところにある。そのシーンに至る前に彼の人物像であり、彼の身であり周囲に起きたことは、彼と関係のあった人物へのインタビューによって断片的に明らかになっている。それらを集めて描かれる宮部の人物像はそのような選択をするそれではないのだ。そのはずなのに最後の最後で彼は選択をする。

なぜそれを選ぶのだ。

という気持ち、一方でその環境にあればそれも致し方ないのかもしれないという理解、しかしそれでもなぜ、という気持ち、それらの整理をつけきれないうねりが涙を流させたのだと思う。

冷静に考えれば、なぜ宮部があれほどの強い意志をあの時代において当たり前のように持ち続けられたのか、そしてなぜ最後にそれを向ける方向を変えたのか、そこに触れる部分が記されていない。そここそ最も気になる2つの点であったのに。それでも物足りなさを感じさせない一冊であった。

宮本武蔵に憧れ、空戦において自身が最も強いと考え、それを示すためだけに戦う人物が描かれる。それはまさにバガボンドで描かれる宮本武蔵であり、若かりし頃の柳生石舟斎であり胤栄でありに重なり、彼と宮部との模擬戦において宮部は上泉伊勢守秀綱に重なる。

そして、生きることの尊さ、自身のためのみならず自身の大切なもののために生きることの尊さと強さを感じた。フィクションだが、そういった生き方の許されない時代があったこと、それを経て今自分が生きている日本があることを学ぶ必要があると感じた。

長い時間同じ環境にいるということ、とまっているということ

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同じ環境に長い時間身をおいてからその外に出ると、自覚せぬ間に当たり前になっていることが思いのほか多いことに気づく。コンサルティングを生業としていてプロジェクト毎に異なる業界で異なるテーマを扱っていても、提案も合わせたら結構な数の、多様な課題と向き合ってきたといっても、コンサルタントというプロフェッションであり、プロジェクト型のワークスタイルでありに長時間従事していたら、その外に出て初めて気づくことは多い。

ふと怖くなる。2つの意味で。ひとつは自分のケイパビリティが偏っていたということに気づいた、即ちそれに今まで気づいていなかった怖さ。自分が、自分が謙虚でいる以上に小さい存在だと今まで気づいていなかった怖さ。もうひとつは、ケイパビリティだとか自分の幅とか言う考え方をしている怖さ。そんなものを気にしてどうという話ではなく、自分が世に出したいインパクトがあるなら、自分を賭して解決したい課題があるのなら、ケイパビリティが偏るなどという話はどうでもよくて、偏ってるなら身につける、身につけている人をチームに巻き込むか、行動が全てのはずなのに、そこを怖いと言っていられるモラトリアムにいるんだという怖さ。

怖いという表現をしたが、今より早く気づけるタイミングはない、軌道修正をかけられるタイミングはない。そしてこうしたモラトリアムにいるからこそ種々の圧力なく自分の人生を考え、自分が生を受けた世界を、時代を広く捉えられるはずだ。

ひとまず、つくりだした機会に全力でこたえ、自分を変えて行きたいと思う次第。

 

物足りないよりはみ出る位の方が良い

なすべきことが一言一句定めらている仕事は別だが、仕事について物足りないと感じられるよりもはみ出してしまう位の方が往々にして良い結果が得られる。そもそも物足りないのかはみ出しているのかの判断基準は自分が価値を出すべき相手の期待値。なのでそこはおおよそでも掴む必要がある。それははみ出すはみ出さないの議論以前の問題。

期待の中には当たり前のように満たせるところもあれば、そうでないところもある。満たすためにリスクをとる必要があるということだ。リスクの切り出し方やそこへチャレンジするステップを工夫することでリスクを最小化することもできるだろうと思う。ただ、それができているのかいないか、いつとるべきなのか、そこがわからなくなり逡巡しながら物足りないと感じられるより、荒削りであってもジャンプした方が良いということ。

それができるひとが求められているからだ。

当人がマネージャになった時、ディレクターになったとき、CEOになったとき、リスクをとる必要はいつでも訪れる。勿論その時に常に正しい決断をし、正しい結果を得られるならばそれに越したことはないがそれは極めて難しいもしくは不可能だ。判断が正しいかどうかは後で、結果が出て初めて分かる。

それは判断を下した時点でそれが正しいかどうかなどという話は大した話ではないということだ。大切なのは自分が下した判断に従って、その後どうにかして結果を出すことだ。そのどうにかしての過程がの方が余程大切なのだ。

判断を下さずに、結果を得る努力をする方向を定めず、ただリスクが通り過ぎていくのを見過ごしているようなふるまいは求められていないのだ。

もっと良い判断があるのかもしれない。もっといいやり方があるのかもしれない。もしそうだったとしても、(勿論他者に相談する、助言を求めることはあっても)自分の判断に、自分のやり方に、そしてそれがもたらす結果の全てに責任を追って走り続けるのだ。

いっとき相手の期待値を満たせない可能性もあるかもしれない、想定外の動きで相手を驚かせる、怒らせる、失望させることもあるかもしれない。しかしそれは1つの過程に過ぎない。結果を出すまでその判断が正しいかどうかはわからない。その1つの過程は自分の行動の成否を決定づけない。

自分が結果に対してオーナーシップを持っている限り、アカウンタビリティを果たしながら、自分の出すべき結果に向けて、はみ出してでもなんでも走り続けるべきなのだ。そうして得られた結果は、結局期待を満たせるものでなかったとしても多くの学びをもたらしてくれる。それだけコミットする人間なのだという信頼を生み出してくれる。期待を満たせるものであったなら、もっとうまくやれたかもしれないという、次に生かせるであろう山のような反省をもたらしてくれる、実際の価値を相手へ届けてくれる。