いつもとちがうはじまり

今回はプロジェクトのはじまりもいつもと違う。何かと新鮮だが早速いくつもの課題も見えてくる。最初は手探りだったけど徐々に現実がみえてくる。人がみえてくる。何をするにしても”初めてだから”で許されることは結構ある。そして初めてだからという話は最初しか使えない。今のうちに最大限活用して足元を固めておきたい。ここで失敗を恐れたり、何かいきなりホームランを打とうと力んでタイミングをずらてしまった挙句小さくまとまってしまう、というのはもったいない。

いつもとちがう終り

今日でプロジェクトに区切りがつく。最期のミーティングを終えて、入館証を返して、お礼を言って、建物を後にする。残作業はちょっぴりあるのだけど。いつもプロジェクトが終わると自分の中にぽっかり穴があいたような気持ちになる。ずっと走り続けて、まだ体も心も走るモードになっているのだけど、目的地がないからだ。走ったあとクールダウンが必要なように、プロジェクトの後もすぐにいきなり立ち止まって休むことができない。これまで目指した目的地がもうないことに、走る必要がないという状況に慣れるのに少し時間がかかる(勿論プロジェクト以外に目を向ければいくつも目指すところがあったりするんだけども)。
で、たまに、ようやく休むモードになったくらいのときに風邪をひいたりする。
のだけど、今回はちょっぴり不思議な気持ち。いつもと違う終りだ。1つあるのは来週からすぐに次のプロジェクトにjoinするという状況にあること。今のまま、むしろより加速度をつけて来週からスタートダッシュを決めたい。もうひとつはプロジェクト自体が今まで経験してきたものと少し違ったからかな。いろいろな初経験ができたと思う。その時点で学べたもの、これから学びを探すものあるけども。
週末に体を休めて、次の準備をしていきたい。

資料の目的

見た目美しい資料をつくれる人は多くみかけるのだけど、目的を考えずに資料を美しくする(それなりに手間をかけて)人も結構いるように感じる。それは非効率だ。そこに時間を投入しているという意味で。そして効果的とも言えない。クライアントとディスカッションをするためのペーパーであった場合ならディスカッションの幅を規定する枠になってしまうという意味で。
例えば、クライアントを理解しよう、お互いに知っている知識・考えている仮説をまずテーブルに並べてその筋の良し悪しをディスカッションしてみよう、と言うときに、コンサルタントが持ってきた資料が100%コンサルタントの主張する仮説をサポートするものであり、質はそこそこ、そしてそこそこロジックも担保されており、そして美しく図表が配置されてつくり切られていたとする。
その資料のクライアントへのメッセージは、”中途半端なロジックでものをいうな、この主張が正しいのだから受容れろ”となってしまうことが多い。資料がディスカッションを拒絶している上、説得までしようとしているように映る。
そう感じてクライアントは不快になる、そしてそこそこの質やロジックで言われても納得はできない。彼らは私達を理解する気がないのだな、且つその程度の主張を押し付けるのか、となる。でも資料を基に話をする(コンサルタントはそのつもりなので)、自然と資料のあら探しになる。俗にいうレビューモードのミーティングになる。
指摘事項をコンサルタントが直して持っていってまた自分達の主張を繰り広げようものならそのプロジェクトはむずかしいものになる。
仮説があるのは良い、それを主張するだけの裏づけを持てているのも良い。ただそれを全て資料に書ききってプレゼンしていてはディスカッションにならない、クライアントと一体になって頭で理解し、心で納得するようなものはできあがらない。
極論すれば論点と、その論点の理由を示す資料が1-2枚あればいい。仮説やらそれを支える情報やらは必要に応じて言えばいい、見せればいい。キレイにまとめられている必要は一切ない(かといって数字の羅列とかレポートの切り抜きの束とかではつらいが)。後はPCででもホワイトボードでもに書きながらディスカッションを進めればいい。
答えを期待していないときに無理やり答えとおぼしきものを持ってこられて、しかも最初から最後まで一方的に主張されるというのはおそらくとても居心地の悪いものだと思う。逆に答えを期待しているときに、答えを導き出すための論点の説明をされてもまたおかしなことになるだろうと思うが。

海辺のカフカ

海辺のカフカ (上)
海辺のカフカ (下)
村上 春樹 (著)
時間がないと言いながら週末つい手にしてしまって読んでしまってと。基本的に自分は小説を読みながらあれこれ考えるというよりはイメージに身を任せてその世界に浸る性質なのだと思う。本の最後に行くにつれて謎が解き明かされるとか、ちりばめられていたストーリーがひとつにつながるとかそういう話ではない(これは村上春樹の作品共通なのかな)。
自分の理解の範疇を超えたところで何らかのプロットがあるのかもしれない。そして登場人物もそれはわかっていない。そんな中で、ユニークなそれぞれのキャラクターがそれぞれの過去を抱え自分らしく生きている世界を感じることが心地よい。勿論その中には苦しいものもあるし哀しいものもあるのだけど。
印象に残っている言葉を一部抜粋。

上 P.384-385
「差別されるのがどういうことなのか、それがどれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、その後には個別的な傷口が残る。(中略)僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T.S.エリオットの言う<うつろな人間たち>だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そして、その無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理やり押しつけようとする人間だ。

上 P.400
「そりゃいい。だからね、俺が言いたいのは、つまり相手がどんなものであれ、人がこうして生きている限り、まわりにあるすべてものとのあいだに自然に意味が生まれるということだ。いちばん大事なのはそれが自然かどうかっていうことなんだ。頭がいいとか悪いとかそういうことじゃないんだ。それを自分の目を使って見るか見ないか、それだけのことだよ。」