自分のチャレンジをする義務

年末に今年を振り返りたいと思う。その前に一つ書きたい。普段得難いフィードバックを得られたから。整理して来年以降の自分の糧としたい。頂いた言葉自体ではなく自分の解釈に重きをおいて書きたい。

-思考レベル・体力が高い。特に自分の経験と関連する領域に関しては目を見張るものがある。
-ふるまい・言動はマチュアで安定している。思考体力とも関連するが難しいテーマにも動じずに粛々と臨み解く冷静な態度も良い
-チームを信じて大切にする・育てながらリードしようという姿勢は素晴らしい。
-ただ、それだけでしかない。おおよそ全ての領域で高いレベルでまとまっているが、程よいレベルでありどこも突き抜けるところがない。

このようなフィードバックをもらったのは初めてだった。これまでの自分の仕事に鑑みれば最初の2つは当たり前。3つ目は自分の信条であり性格だ。4つ目、確かにそうなのだ。僕は自分がどういう点で、尖っている存在であるのかというのを考えてこなかった。

これまで常に自分のやりたいことをみつけて、それに向かって歩いてきた。戦略コンサルタントという生き方を選択するのもそう、MBA留学を決めたのもそう。その過程で出会う人は多くの場合学びの対象であり、実際に多くのことを学んできた。自分のスペックもわかっているつもりだったので効率を上げられないところは時間を投入して補ってきたと思っている。

その延長線上に次のチャレンジを求めていた。と考えいた。が、上記のフィードバックを得てそれが自分がすべきチャレンジなのか?という疑問が浮かんだ。

自分の人生を通じて何にチャレンジするのか、それは自分の意志が規定するものであり、これまで何にどれだけの時間でありリソースを投資してきたのかも、今自分が何を持っているのかも関係ないと思っていた。しかし自分が何を持っているのか持っていないのかをわからずして、あるものを自分のチャレンジを決められるだろうか。またその意志は自分の経験や持ち物から独立したところから生まれ存在するものだろうか。

書きながら気づいている。四の五の言わずとにかくやれということだ。もしそれが成し遂げられたのならば次のチャレンジに進めばいいだけの話なのだ。

そして今回のフィードバックは、自分にとって2つの意味を持っている。1つは、自分がするべきチャレンジはこれまでの延長線上ではなくもっと違うところにあるのではないかということ。1つは、自分の過去を再構成するでもこれから積み上げていく経験を通じてでも自分が何者なのか、自分がそれをやる意義を掴んで進んでいくということだ。

それは過去になった時に振り返って初めて気づくものだと思っていたが、それをわかっているからこそできるチャレンジもあるのではないかと考えを改めた。それをわかったチャレンジだから自分がするべきチャレンジになるわけであり、それをしていく義務というのがあるのではないかと感じた次第だ。

このフィードバックを得なければ違和感を覚えずして過去の延長線上に次のチャレンジをセットしていた。こうして自分に違和感を覚え、新たなチャレンジを見つけるべく動く機会を得られた意味で非常に価値のある、ありがたいものなのだ。

時系列で人の表情に触れる

息抜きに写真の整理をする。
Picasaで写真データを管理している。顔を自動で識別してくれる。時折その判断を修正する・suggestionを判断する。手元のpicasaには200を超える人の、30,000を超える表情がある。
その表情を眺めていると個々人の表情のつくり方、感情の伝え方(どのような感情を伝えているかは受け手の主観的な判断になる)を一部でも理解できるようで面白い。言葉も場の雰囲気も一切排除して、表情だけを追いかけることができる。
またその顔・表情の変化も面白い。古くからの仲間の写真は高校・大学時代から今に至るまでのものが時系列で並んでいる。彼/彼女の人生が表情に現れているように感じられる。勿論自分も然りだ。
相手から情報を得て、解釈して、反応するのは自分。極力相手が発信している情報ではなくて相手が発信したい情報を確認するように、それに対して反応するように心がけているけどそうはいかないときはいくらでもある。
相手を理解するためにも、勿論昔を懐かしむ意味でも、時系列で人の表情に触れるというのは良いことだと思う次第。
そして、自然と良い表情が生まれるような生き方をしていきたいなと思う次第。

IESEでの一学期を終えて ー二学期以降をより良くするための5つのポイント

あっという間に一学期が終わった。振り返って二学期以降をよい良いものにしていきたい。

ざっと書いた。5つある。

感じたままに書いている。実現するために必要な行動は改めてまとめていきたい。

・もっとチャレンジしろ ー何の変化もなく終えることは容易い

もっとチャレンジが必要だ。カリキュラムはとてもdemandingで時間配分・各時間の使い方を工夫しないと、いとも簡単に、クラス、アサインメント、試験準備で日々は終わる。それが悪いとは言わないが、その中でももっとチャレンジすべきことがあるはずだ。全てが自分の理想通り進んでいるならそれらの外にチャレンジを求める。そうでないなら、そしてそれらの優先順位が高いのなら、それらの中でチャレンジを求める。

・何のためのMBAかもっと明確にしろ ー成績のための勉強ではない

目的がないとき人は受け身になる。目的を持っているつもりでも、それを握って腰を据えて現実に対峙できていなければ、その目的はどこかへとんでいき、日々の現実に流されることになる。長期のキャリアゴールだけでは充分でない、短期のそれでも十分でない、それをブレイクダウンし、自分のそれぞれの行動(クラス然り、チームアクティビティ然り)に対して明確な目的・達成指標を埋め込んでいかないと、タフなプログラムに流されることになる。

クラスでていよく発言をして、試験でいい点数をとって、良いグレードをとる。それは目的たりえない。ついてくる結果だ。勿論それだけをとっても簡単なことではない、極めて難しいことだけれども。クラスがあるからケースを読む、アサインメントがあるからやる、試験があるから勉強する、そういう受け身で学びにここにきたのではないはずだ。レンガ職人の話を思い出す。

・定めた優先順位へコミットしろ ーでないと忙しさに流れて受け身で終わる

目的を定め、自分の行動の評価指標までブレイクしたいと書いた。とはいえ一日は24時間だ、自分の体は1つだ。できることには限界がある。優先順位を明確にして、それにコミットする必要がある。やりたいことは全部やる前提で最善を尽くす。しかし限界があるならそのときは優先順位に従って”やらない”という選択をしなくてはならない。それを可能にするためにも、自分の目的であり優先順位にはコミットしていなくてはならない。

・クラスの議論はもっと深くできる/しろ ー不満を感じる、不平を言うでは変わらない

クラスはケースディスカッションで進んでいく。表面的に感じる議論もあったし的を射ていないと感じる議論もあった。ならば自分が変えなくてはならない。ケースのディスカッションのピントが定まらず何を学びとして良いのか判断が難しいこともある。が、自分で決めなくてはならない。議論が浅いのは誰のせいか。浅いと気づきながら変えることをしない自分のせいではないのか。学びのポイントがわからないのは誰のせいか。何を学びたいのかを明確にして議論に臨まなかった自分のせいではないのか。

不満を感じ不平を言うための投資なのか。それが自分の定めた目的、コミットした優先順位に従った行動なのか。

もし議論が浅い / 的を射ていない理由が誰もそう感じていないからなのだとしたら、その気づきを与えるのが自分の価値ではないのか。勿論自分が常に正しい訳ではない。が、その一石を投じないことには自分が誤っていたのかどうか検証することも叶わない。

・周りとの違いが自分の価値であると肝に銘じろ ー同じなら存在価値はない

ということで自分の考えが周囲のそれと異なるなら、徹底して戦わせなくてはならない。が、難しく感じることもある。限られた時間、限られた英語力で紡いだ自分の考えに自信を持てない時もある。しかしその考えは改める必要がある。

質はさておき。周囲との差異が自分の存在価値だと考えた方が良い。自分が周囲と考えを違えるとき、自分が価値を付加しているのだと考えたほうが良い。ここで言う違いは横の広がりでの違い、深め具合(縦)の違い双方を指す。

そう考えるとどうなるか。議論でポジションをとる大切さを知る。周りの考えとのコントラストを明確につけるということだ。

1学期のクラスでのディスカッションを振り返ったときに、誰が議論を乱したか、誰が異なる意見を述べてクラスの学びを損ねたかを振り返るとわかる。

誰もいない。

探せば見つかるかもしれないが、大して気にならない。まあそんなこともあったなあという程度だ。クラスのディスカッションでの発言というのは、滑ろうが議論が宙に浮こうが周りにどれだけ否定されようが、振り返ればその程度なのだ。皆忘れるのだ。

一方、例えば自分の過去の経験から紡ぎだした意見や議論の流れを大きく変えた発言、周囲を考えさせる新たな視点を生み出した意見は印象が残っているはずだ(希望的観測含む)。都合よく捉えて、周囲と自分との差異が自分の存在価値だと信じてチャレンジして損はない。得られるものは多い。