何があっても最後は自分がどうにかするという覚悟

最終学期で卒業までもう時間が限られているということで、就職活動もたけなわということで、仲間の日頃の行動の優先順位がいよいよ多様化している。

そんな中で選択しているVCPE(Venture Capital & Private Equity)のクラスでは毎週のようにチームでのアサインメントが課される(4人で1チームになっている)。投資家の立場であるPEファンドに投資するべきかどうかを分析・判断する。ファンドのGPの立場で投資家へピッチする、どの企業へ投資するべきか分析・判断する、起業家の立場でVCへピッチする。等々。

毎回数十から数百ページに渡るケースと資料(ファンドの目論見書であったり投資案件の目論見書であったり)を読み込んで事前に資料を作成しクラスに臨む。

毎回のプレゼンテーションにはGPの立場で投資家へプレゼンする場合は投資家の方々が、起業家の立場でVCへピッチする場合はVCの方々がクラスの最前列の席に座り数々の質問が浴びせられる。

教授陣の学生への期待値も高く、質の低いプレゼンやクラスディスカッションに対しては辛辣なコメントが寄せられる。

 

というクラスであっても、それに臨む学生には冒頭に述べた通りそれぞれのプライオリティがある。結果、チームワークを発揮するのが難しいケースが発生する。

アウトプットの構造とメッセージを合意して分担しても出てくる資料の質が低い、質問に耐えうるロジックがない、もしくは資料がでてこない。

タスクを分担して進めた方が効率的だという意見に従いそうする。すると今度は締切の1-2日前になって、忘れていた、わからない、という話で白紙のまま手元に戻ってくることもある。その頃には相手に教えながら、丁寧に議論をしながら内容を詰める時間はない。申し訳ないと思いながら全て自分に任せてもらう。

 

こういう状況にあっても仲間を責めることなく粛々となすべきことをなしていけるのは(たまにネタで文句をいうことはあるとしても)、それが想定の範囲内だということもあるが、自で決めたことがあるからだと思う。それは、

このクラスから学びたいことがありそれを得るのだということ、そのためのアサインメントであれなんであれ、最終的には自分で何とかするのだということ

だ。後者は自分なら何とかできるという根拠の不確かな自信も混ざっている。

チームワークの質と僕がそのクラスから学ぶことには関係がない。良いチームワークが発揮できれば仲間からより多いものを学べるという考えはあるが、それはクラス中でも、違うチームの仲間からでも学べる。

その学びを多くするためには事前準備は大切だ。なので全てのアサインメントに主体的に関与する。自分の納得の行くアウトプットを出すという点においてもチームワークがどのようになろうとも関係がない。実際に出すものが100%自身の理想を体現していなくてもどうするべきかは具体的にイメージがある状態でクラスに臨める。それであれば学べる。

今の時間の大切さはわかる。大切な友達と好きに旅行できるのも今だけだろう、卒業後のキャリアを決めるのに誰だって悔いを残したくないだろう。

そして僕はこのクラスの学びにおいて妥協したくないのだ。なのでチームワークと言う名のもとにそこそこのところで手を打って、何となく課題をこなしてやり過ごしていくようなことは避けたい。その道のプロにかなわずとも、そのGAPを知り、埋めていく過程も大切な成長だ。

そうやって動いているとチームメイトのことは気にならなくなる。

不思議なものでそうしていると同じように考えて一緒に頑張る仲間がうまれたり、旅行優先だった仲間に責任感が生まれたりし始めたりもする。

良い経験になればと思う。

Hofstede Modelによる異文化マネジメントの入り口に立つ

この日曜日はitim internationalの講師の方がIESEの日本人学生に対して、異文化マネジメントのフレームワークである5次元モデルに関するクラスを開いて下さった。参加者は事前にセルフアセスメントを行い、自身の文化的な特徴がどの国のものに近いのかを把握していた。自分の結果もさることながら、周りのばらつき具合、そして日本に重なる人がいなかった点も面白かった。ちなみに自身の結果は、最も近しい国が南アフリカであり、その反対にあったのがグアテマラであった。彼の地に足を踏み入れたことはなく想像が及ばなかった。

内容の詳細はさておき、自身の気づきをまとめておきたい。4つある。

1. 周囲の文化を、良く言えば受け容れる姿勢、悪く言えばそれに流される姿勢が無意識に身についていた

自分が複数人のグループいくつかに混ざり、異なる文化圏に身をおく疑似体験をした。その際に感じたのは、自分の持つ文化を説明する努力ではなく、相手の文化を理解する努力に集中していたということだ。この時はゲーム感覚でいたので自然とできたのかもしれない。もしこれが真剣に何かしらの結果を出さねばならないというプレッシャーの下でのことであり、相手のふるまいより自身のふるまいの方が高い確度で結果をだせるとなったとき同じふるまいができるだろうか。自分一人がもつ文化を説明し、複数人に受け容れてもらうということはその逆より難しい。そこにかかる時間とリソース、どれだけ先を見通すか、考慮してポジションをとれるようにしたいと考えた。が、まずは無意識に周りから学び溶け込もうとしていた自分に気づいたのは何だか新鮮だった。

2. 言葉の解釈に複数の方法があるということを意識しないでいた(自身(達)の解釈の方法しかないと思い込んでいた)

上記のエクササイズの中で、僕は即座に、”ああ、各グループに違う指示がくだされているんだな”と断定した(なのでそういうものと受け容れて我を通さずに受け容れたというのもある)。しかし後にわかったのだが、くだされていた指示は全て同じだった。その指示の解釈が各グループ異なっていたのだった。確かに言われてみれば異なる解釈のできる表現が散りばめられていた。同一の指示でここまで振る舞いが異なるというのは想定していなかった。面白い気づきだった。

3. 相手を解釈するときには既に自分の文化的特徴のフィルターを通して見ている

ひとつの国の人がどうみえるか、みる国によって大きく異なるということを学んだ。これはみる国の人が持っている文化的な特徴が異なるからだ。例えば日本人から見れば個人主義に映るある国の人々も、他の国の人から見れば集団主義にみえるということだ。人によって人をどうみるかは違う。このように文字にしてみると当たり前のことなのだが、その違いの大きさ、そして国ごとにでる傾向が新鮮であった。これも面白い気づきだった。どのような環境にあっても、自分の感覚が当然のもの思い込まずに相手であり事実でありを理解したいものだ。

4. 文化の違いは相対的なものである。結果、いる環境、共にする仲間に応じて自身は異なるキャラクターになる

3と関係するが、自身の文化的な特徴をフレームワークと数値で理解しても、それはあくまで相対的なものだ。自分がフラットな組織を好む人間だと思っていても、周りの人間がそれよりも強くフラットな組織を好みヒエラルキーを意に介さないのであれば、周りからすればあなたはフラットな組織を好まない人間だ。そしてその感覚を自覚することで、自分に対する認識もアップデートがかかるだろう。

少なくとも、文化的な特徴を表す5次元のモデルで表現される自分は周りの影響の上に成り立っているということだ。セルフアセスメントの時に自覚の有無に関わらず周囲の人間、親しい人間と比較して自身を評価していたら、その環境が変わった時点で比較対象は変わり、自身の評価も変わるだろう。

なので、一度の評価のみで自分はそういう人間なのだと考えるのはおそらく正しくない。環境の変化に応じて自身を測る必要があるのだろう。

 

こうしてフレームワークを持って文化的な違いを数値で理解しそれに応じたマネジメントの方法を学び始めると、相手がその数値の組み合わせでできあがっていると誤解することもあるかもしれない。それは避けねばならない。あくまでこの知識は相手を理解し、建設的な関係を築くための道具にすぎないということを忘れてはならない。数字と相手のGAPを感じた時に数字に相手を合わせるような解釈をしてはならない。

にしても、素晴らしい、そして面白い気づきにあふれた3時間だった。

全部ひとりで背負ってみると強みにも弱みにも気づく

自分の過去を振り返るとキャリアにおけるほぼすべての経験をチームでしてきたと思う。メンバーであった時もあればリーダーであったときもある。何にせよチームで動いてきた。チームでミッションを背負うと、その実現のためにアウトプットを定義して、タスクを考えて、分担を決めて、動く。そういった経験を終えるごとに、自身のパフォーマンスを省みる。

うってかわってひとりで全部背負ってみると強みも弱みも気づく。

もともとチームの中で自分が強みを発揮できるタスクを背負ってきたからなのか、弱みを避けてきたからなのか、自分の弱い分野を得意とする仲間が補完してくれていたからなのか。これまでチームの中では気づかなかったところに、ひとりで動くと気づく。

第一義に、一人で背負うということは自分一人で全て責任を負うということだ。責任を負うということはそれを全うするために適切な手段を選び実行し無くてはならないということだ。矛盾するようだが、そのためであればチームでない他人であっても必要とあらばその分だけ巻き込まなくてはならないということだ。

その難しさを経験して、そんな中で自分のパフォーマンスがいかにチームで動くときとくらべて低いかを自覚して、ひとりで何かを背負ってもがいている人がいたらその人をサポートしたいと強く思うようになる。その環境にいる人のパフォーマンスが思わしくなくとも – それは結果に責任を追っている以上結果が悪ければその人の責任であることにかわりはないが – 当人を責めずに他の解釈をして助言をするなり何なりの対応ができるようになると思う。

都合がいいような気もするが、まあ人間こんなもんだろうという気もする。経験が自身の想像の及ぶ範囲を広げてくれる。その想像力が他人を慮る力になると思う。

[書評]不格好経営

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不格好経営―チームDeNAの挑戦
南場 智子 (著)

どうしても読みたかった。そして読んでよかった。

マッキンゼーを辞してDeNAを立ち上げ今日に至るまでを、南波氏らしい軽快にして濃密な文体で綴っている。胸を熱くするシーンあり、思わず吹き出して笑ってしまうシーンあり。ただ、こうして彼女たちチームDeNAの、度重なる挑戦と毎度のように迫り来る苦難、それらを乗り越えその経験を糧に成長し、更に大きい挑戦をする、というノンフィクションにひたすらに触れていると、自分を自然と省みる。

彼女の考え方で印象に残っていることが3つある(自身の理解を書いているので実際は著者は異なる言葉遣い・表現をしているだろうと思う)。

1つは個人のキャリア、成長について。自分が成長できるかという視点で仕事をみるな、仕事にあたるなということだ。それは後からついてくることであり、目的たり得ない。目的は別にある。ということだ。

そう思う。社会人になって間もない頃、今思えば自分の成長が最大の関心事であった時代がある。でもこれまでの経験を振り返ると、自分が最も成長したと思える体験は、その渦中にいるときは自分の成長なんて微塵も意識していなかった(できる状況になかった)ものだ。だからといってそれを求めて修羅場に入るのもおそらく何かが違う。見ているものが違うのだ。

 

1つはコンサルタントと事業家の違いについて。彼女は本書の中で経営者になるために戦略コンサルタントになろうとする人を、プロゴルファーになるためにゴルフレッスンのプロになろうとしているようなものだ、と言う。そしてできるコンサルタントはその違いをわかっている。コンサルタントだからできないこと、できることをわかった上で仕事にあたっているという。

納得する。コンサルタントを離れ留学し、いろいろな経験を得ている。それらを通じて、上記に気づいた。自身がいざひとつの事業テーマに責任を負う立場になってみると、コンサルタントとしてそういう立場にあるクライアントに接していた時とは多くのことが異なる。自身がドライバーを握りフィールドに立ち、ボールを打ち、スコアに責任を負う立場と、それをいろいろな角度から眺め、情報を集めて、どっちを向いて、何で、どう打つべきですよ、と助言する立場ではあまりに違う。それにしてもこの喩えは秀逸だと思う。できること、やるべきことがプロゴルファーとプロコーチで違うことも一目瞭然であろうし、そのために必要なスキルが異なることも白明だろう。

 

そして1つはチームワークについて。彼女はマッキンゼーのマネージャ向け研修でメンバーを16種類のタイプに分けて接し方を分ける手法を米国で学び、それに嫌気がさして初日が終わってから日本に帰っている。その理由は、なぜ自分が寝食を共にするほど長時間共にいる仲間を、たかだか16種類に分類してその接し方に当てはめる必要があるのか、というものだった。そして彼女は自分たちが最初の成功体験を迎えた時の、ゴールが全く異なる個々人が重なり、最高の笑顔になる瞬間からチームワークでありリーダーシップとはこういう瞬間をいかにつくりあげるかなのだという考え方に至っている。

その通りだと思う。僕も昨年MBAのオリエンテーションにおいてクロスカルチャーからなるチームのパフォーマンスをいかに高めるかという話の中でいくつかの思考パターンや表現のパターンを学んだ。しかし強く違和感があった。目の前にいるメンバー、毎日を共に過ごすメンバーがいるのに、なぜ彼らから学ぶ前に先入観をもたせるような情報を与えるのかと。彼らが個人的に、そして文化的にどう異なるかは、チームワークを通じて学ぶものではないかと感じたからだ。これに関しては、IESEでの1年を終えてのエントリーのチームからの1番の学びとしてまとめている。

 

全体を通じて南波氏のDeNAであり仲間であり、そしてここに至るまでにお世話になった方々へのたくさんの愛であり感謝を感じる。

僕も自分の道を全力で行かねばと気持ちを新たにする。

結果にこだわれ。結果さえ出せばいいとは考えるな。

仕事で第一義にこだわるべきは結果だ。過程ではない手段でもない。結果だ。

しかし結果さえ出せばいいという考え方は違う。結果を出すことにこだわっていたら自ずと手段にも配慮をする。チームの組み方もそうリレーションの築き方もそうコミュニケーションの取り方もそう。なぜなら一人で出せる結果、他人と関係のない結果はごく限られているからだ。こだわるべき結果は個人のパフォーマンスのみに依存するものではないからだ。世の中に出したいインパクトであり、ビジョンの実現であり、それは多くの人がいて初めて成り立つものだからだ。

一方で結果さえ出せばいいという考え方は個人のパフォーマンスに閉じた考え方であることが多い。往々にしてその考え方は個人を離れたところでの結果を損なう。自分のみにこだわり自分の好きにふるまいアウトプットをだしてもそれを引き継ぐ人がいないからだ。それを喜ぶ人がいないからだ。

自分が出したい結果が大きいほど、必要なものを考え、それらを大切にしなくてはならない。そして、自分の出したい結果が大きい程、必要なもの、大切にするべきものは案外多い。自分が結果を出したシーンを思い浮かべた時にそこに他人がひとりでもいればそれだけで大切にするべきものは自分だけではなくなる。