[書評]不格好経営

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不格好経営―チームDeNAの挑戦
南場 智子 (著)

どうしても読みたかった。そして読んでよかった。

マッキンゼーを辞してDeNAを立ち上げ今日に至るまでを、南波氏らしい軽快にして濃密な文体で綴っている。胸を熱くするシーンあり、思わず吹き出して笑ってしまうシーンあり。ただ、こうして彼女たちチームDeNAの、度重なる挑戦と毎度のように迫り来る苦難、それらを乗り越えその経験を糧に成長し、更に大きい挑戦をする、というノンフィクションにひたすらに触れていると、自分を自然と省みる。

彼女の考え方で印象に残っていることが3つある(自身の理解を書いているので実際は著者は異なる言葉遣い・表現をしているだろうと思う)。

1つは個人のキャリア、成長について。自分が成長できるかという視点で仕事をみるな、仕事にあたるなということだ。それは後からついてくることであり、目的たり得ない。目的は別にある。ということだ。

そう思う。社会人になって間もない頃、今思えば自分の成長が最大の関心事であった時代がある。でもこれまでの経験を振り返ると、自分が最も成長したと思える体験は、その渦中にいるときは自分の成長なんて微塵も意識していなかった(できる状況になかった)ものだ。だからといってそれを求めて修羅場に入るのもおそらく何かが違う。見ているものが違うのだ。

 

1つはコンサルタントと事業家の違いについて。彼女は本書の中で経営者になるために戦略コンサルタントになろうとする人を、プロゴルファーになるためにゴルフレッスンのプロになろうとしているようなものだ、と言う。そしてできるコンサルタントはその違いをわかっている。コンサルタントだからできないこと、できることをわかった上で仕事にあたっているという。

納得する。コンサルタントを離れ留学し、いろいろな経験を得ている。それらを通じて、上記に気づいた。自身がいざひとつの事業テーマに責任を負う立場になってみると、コンサルタントとしてそういう立場にあるクライアントに接していた時とは多くのことが異なる。自身がドライバーを握りフィールドに立ち、ボールを打ち、スコアに責任を負う立場と、それをいろいろな角度から眺め、情報を集めて、どっちを向いて、何で、どう打つべきですよ、と助言する立場ではあまりに違う。それにしてもこの喩えは秀逸だと思う。できること、やるべきことがプロゴルファーとプロコーチで違うことも一目瞭然であろうし、そのために必要なスキルが異なることも白明だろう。

 

そして1つはチームワークについて。彼女はマッキンゼーのマネージャ向け研修でメンバーを16種類のタイプに分けて接し方を分ける手法を米国で学び、それに嫌気がさして初日が終わってから日本に帰っている。その理由は、なぜ自分が寝食を共にするほど長時間共にいる仲間を、たかだか16種類に分類してその接し方に当てはめる必要があるのか、というものだった。そして彼女は自分たちが最初の成功体験を迎えた時の、ゴールが全く異なる個々人が重なり、最高の笑顔になる瞬間からチームワークでありリーダーシップとはこういう瞬間をいかにつくりあげるかなのだという考え方に至っている。

その通りだと思う。僕も昨年MBAのオリエンテーションにおいてクロスカルチャーからなるチームのパフォーマンスをいかに高めるかという話の中でいくつかの思考パターンや表現のパターンを学んだ。しかし強く違和感があった。目の前にいるメンバー、毎日を共に過ごすメンバーがいるのに、なぜ彼らから学ぶ前に先入観をもたせるような情報を与えるのかと。彼らが個人的に、そして文化的にどう異なるかは、チームワークを通じて学ぶものではないかと感じたからだ。これに関しては、IESEでの1年を終えてのエントリーのチームからの1番の学びとしてまとめている。

 

全体を通じて南波氏のDeNAであり仲間であり、そしてここに至るまでにお世話になった方々へのたくさんの愛であり感謝を感じる。

僕も自分の道を全力で行かねばと気持ちを新たにする。

クライアントの視線とプロとしてのこだわり – 5年前のプロジェクトから学ぶ

ブログの記事につけていたタグは移行できなかったので時間をみつけてはコツコツとつけ直している。過去のエントリーが1200近くあるので時間がかかる。しかしその過程で過去のエントリーを読んでいると忘れていた自分の学びを振り返ったり、思い出に触れたりとなかなか良い時間が過ごせたりする。

いくつも目にとまる中で、改めてここに残したいと思ったのがこのエントリーだった。

おわりとはじまりと

今でもこれが誰との、どんな場所での、どういう雰囲気での会話だったのか鮮明に思い出せる。今読んでも改めて自分の胸に刻みたいと思わせるのは自分が成長していないからだろうか。今彼とまたプロジェクトに臨むことがあったら、もっとインパクトのある、価値のある仕事ができるだろうか。

奇しくも今はこの時から5年が過ぎている。彼と同じ年齢になる。

これをきっかけに思い返せば、本当にたくさんの、素晴らしい方々のお世話になってここまでやってきた。その方々へ恩返しというのはおこがましいが、自分が新たに会う仲間であり、自分の後進でありへ返して行きたいと思う次第。

おわりとはじまりと

この週でこのプロジェクトも最終報告を終え、ひとつの区切りを迎えた。クライアントからすればあくまで1つのプロジェクトに区切りがついただけであり、自分達がつくっている戦略であり計画でありを実行に移すのはまさにこれからになるのだけど。

前夜、クライアントとの打上げを終え。朝、今後についての打合せも終え。昼前から自由のみとなる。これまで、時に思いっきり転んだり、互いに手を引いたり、時におんぶをしあってきたりしたコンサルタントの方とすこしはやめで、すこしゆっくりしたランチをとりに繁華街へ。自分にとっては少し懐かしく、彼にとっては新しい街だ。”いやー、やっとこれましたね(笑)”なんて話をしながら繰り出す。食事をしながら話をするのはこのプロジェクトの話、そして今後の話。振り返れば(一部はその当時からはやくも)ネタになる笑える経験(今になれば修羅場も笑える?)、そのときは気づいていても口にしなかった互いの胸の内、これから先もっと伸ばした方がいいところ等々、話は尽きない。

面白いもので、そのときは気づいていても口にしなかった互いの胸の内は、いざ口にしてみると既に互いに気づいている。当時の自分の機微を理解しており、そして相手の言葉以外で表現されているメッセージを受け取っていたようだ。言葉以外のコミュニケーションでやりとりできる情報の多さに素直に関心する。いただいたたくさんのメッセージの中で1つだけ書いておこうと思う。

(このプロジェクトの中で何度か自分のやり方や価値に迷いを持った時があった。それを話した自分に対して)

それは違います。確かに一緒にやっていてドライブする力が弱くなった時が1-2度ありましたけど。違いますね。何でかって言うとそれはお客様の目を見ていればわかります。このプロジェクトでお客様がsagadさんを見る目が変わっていくのを横で見ていました。彼らが迷っている時、相談したい時、それを僕らが答えるとき、彼らが見ていたのはsagadさんの方でした。それは彼らに信頼されているからこそのことです。自分でどう思うかというのはあるのかもしれませんが、彼らの視点からみて価値がなかったということはないと思います。

価値を考える視点がそもそも違ったのだなと反省しながらもらった言葉を噛みしめた。まだ”自分”だけに焦点があってしまってるのだなと。そして、プロジェクトとは別だけどプロフェッショナルサービスというものについて気づかせてくれるエピソードを1つ。

(彼が以前欧州へ行ったときに、ある有名な靴ブランドの本店で靴を買った時の話)

靴づくりの職人さんが似合う靴を探してくれるんです。その時点でまずお金を扱う方と、お客様にあった靴を探す方が分けられているんですね。で、実際に靴を探すときなんですけど、その職人の方が次から次へと靴を持ってくるんです。これを履いてみろ、あれを履いてみろと。で、だんだんと疲れてくるんですよね履かされてる方は(笑)で、なんとなく良さそうなやつがあって、”これがいい”って言うと、職人さんが”ダメだ”っていうんですよ。

彼は僕の言葉を聴いてないんです。僕の目であり表情でありを見てるんです。”お前はまだ心のそこから”これだ!”って思えてないだろ”って。それでまたたくさんの靴を履く。そうすると、でてくるんです、”あ、これだな”っていうのが。そしたら今度は僕がそれを言う前に、”こちらですね。”って言うんですよ。

これだけのこだわりをもって自分がコンサルタントとして活動できいたかなーって思うと、いやー、考えさせられますよね(笑)

今回のプロジェクトで感じたのだが、おそらく彼はこれだけのこだわりをもってコンサルティングということに携わることができている。

自分はどうだろうか。

今回のプロジェクト、彼との出会いで学べたことを旨に前に進んで行きたい。

そのためにまず自分のメンテナンスもしていこう。

ブラックペアン 1988

ブラックペアン1988
海堂 尊 (著)
面白いもので世界に入り込む程に本を読むスピードも上がってくる。そして読み終えた。海堂さん作品5作目。
これまでの読んできた海堂さん作品の中で、もっとも”プロフェッショナル”について学びの多かった作品だと思う。佐伯、高階、渡海、3者それぞれの個性そしてプロフェッショナリズムから学ぶことは多い(一部屈折しているものもあるが)。医療の世界の中で展開される話ではあるが、自分の仕事について考えさせられる。
また20年前の話であり、これまでの作品の中に登場してきた、田口、速見、藤原、猫田、花房、水落、名前だけたまに登場していた坂田といったキャラクターの当時の姿、ポジションを知ることができて面白い。
学びを得た言葉の一部を以下に抜粋する。ストーリーの一部が見える可能性があるので、避けたい方は読み飛ばしていただければと思う。

「必要なら規則(ルール)は変えろ。規則に囚われて、命を失うことがあってはならない」

「わからなければ勉強すればいい。手術場では、最後に頼れるのは自分だけだ。誰も助けてくれないぞ」

「世良君の診断は完璧だ。だが君はもう今では外科医のはしくれだ。単なる読影は外科医にとって必要なことではない。この読影を元にどういう術式を選択し、その時どのような問題が起こりうるか、まで考え、言及しなければいけない。君の読影には、その観点がすっぽり抜け落ちている」

(部分抜粋)
「技術ばかり追い求めるあまり、医療の本道を見失った佐伯外科を正道に戻す」
「どんな綺麗ごとを言っても、技術が伴わない医療は質が低い医療だ。いくら心を磨いても、患者は治せない。」
「心なき医療では決して高みにはたどりつけません」

「手術手技が優れていても、それだけではダメだ。患者を治すのは医師の技術ではない。患者自身が自分の身体を治していくんだ。医者はそのお手伝いをしているだけ。そのことは決して忘れてはならない」

チャンスは刹那のはざまにある。

「世良君は、このままいけばいつしか自分が人を殺めてしまうのではないかとびびって、外科医を辞めようとしている。それは敵前逃亡だ。そこには自分が可愛いと思う利己心しかない」

「弱い人間に対していい加減になれるのは、強くて優しい人にしかできない気がします」

「その時はその時。肚をくくれ。それともお前は、エラーを避けたいというだけの理由から真っ正面から結紮を試みて、患者の命と自分の信念を天秤にかけるつもりなのか?」
(中略)
「それは患者のためを思っての言葉ではない。自己満足のためのいいわけだ」

プロフェッショナルの原点

プロフェッショナルの原点
P.F.ドラッカー (著), ジョゼフ・A・マチャレロ (著), 上田 惇生 (翻訳)
自分を顧みるときに手元においておきたい一冊。
私は本を読むとき、だいたいボールペンを持って、何色か使って線を引き、そのページの端を折りながら読み進める。(面白いものでボールペンを持ちながら読むのとそうでないのとで線を引こうと感じる個所の量が異なる。基準が曖昧であることと同時に、自分の意識というのがツールにいかに影響を受けやすいかというのを感じる(とんかちをもてば叩きたくなる))。
この本は、ドラッガーの著作から抜粋し、95の項目としてまとめ、それぞれについて解釈の仕方と行動へ移す際の心構えが書かれている。
もともとエッセンスが凝縮されているので線を引き出したらきりがない。なので特に今の自分に必要な個所はどこかという観点で線を引きながら読み進めていった。
95の項目の関係であったり、同じような記述が異なる項目としてまとめられているが、大切なのは自分が貢献する・成果を出すために必要だと感じる部分をどれだけ正確に見つけ、実際に行動に移し、結果をだすかだろう。
今の自分にとって特にためになったメッセージをいくつか抜粋する。ちょっと多いが。。。最初に書いたとおり、自分の貢献であり成果でありにフォーカスして行動し、振り返り、磨きなおしていきたい。

弱みのなかで重視すべきことは一つしかない。真摯さの欠如である。これだけは見逃してはならない。真摯さは、それだけでは何も生まない。だが、真摯さの欠如、とくにリーダーにおける真摯さの欠如は、悪しき見本となり諸悪の根源となる。

知識ある者は理解される関にがある。素人に対して理解するよう要求したり、専門化仲間に通じれば十分であるとすることは野蛮な傲慢さである。

仕事上の関係において成果がなければ、温かな会話や感情も無意味である。

平凡な仕事に対しては、ほめることはもちろん、許すこともあってはならない。

優れた者ほど間違いは多い。それだけ新しいことを試みるからである。
(中略)
間違いをしたことのないものは凡庸である。いかにして間違いを発見し、いかにしてそれを早く直すかを知らない

人をマネジメントすることは、仕事をマーケティングすることである。マーケティングの出発点は、こちらが何を望むかではない。相手が何を望むか、相手にとっての価値、目的、成果は何かである

妥協には二つの種類がある。一つは古いことわざの『半切れのパンでも、ないよりはまし』であり、もう一つはソロモン王の裁きの『半分の赤ん坊は、いないより悪い』である。

本質における一致、行動における自由、あらゆることにおける信頼

手術はするかしないかである。同じように、決定も行うか行わないかである。半分の行動はない。