2015を振り返る

気がつけば年の瀬。今年も濃い1年だった。

  1. 仕事はストレッチの日々だった

今も続いていて、年始に向けて備えたいこともあるので、振り返る、という感覚があまりない。

今年もいくつかの新しい経験があり、その度にチャレンジにぶつかってきた。上手くできたと思うこともあれば、もっと上手いやり方があるはずだったと思うこともある。

前者はそのやり方を着実にものにし、後者は、であればどうするべきだったのかを考え、前に進みたい。

難しい局面もあるのだけど、それは健全なことだ。それのない、自分が過去身につけてきたものだけでやり過ごせる道を、望んでいるわけではないのだから。

2.   プライベートは大きい変化があった

10月17日に式を挙げた。あれほど沢山の方々に囲まれ、祝福されるのは、圧巻の光景だった。

式の準備では、自分・自分たちがどれだけ多くの人のお陰で今に至っているのかを振り返ることができた。その感謝の気持を込めた式・披露宴だった。少しでも、恩返しができていたら嬉しい。

 

今後も、色々なイベントがあると思うが、仕事もプライベートも、どちらかのためという理由でどちらかを疎かにすることなく行きたい次第。

辛いのは仕事のせいか自分のパフォーマンスのせいか

若者と働く・接する機会が多い。

ので、彼・彼女らの悩みについて話を聞くことも多い。

自分も昔通ってきた道だけに、頷ける部分もあれば、自分にはなかった感覚を新鮮に感じることもしばしば。

物事は自分の思い通りに進むことの方が少ない。自分がコントロールできる範囲・影響を及ぼせる範囲・どうしようもない範囲、なんて考えてみれば、自分がコントロールできる範囲というのはどうにも狭くて、いかにして人に影響を及ぼし動いてもらうか、というのが大事なんだな、人との関わりというのは自分が若い頃に何となく思っていた以上に大事なんだな、なんて思えたりする。

話がそれた。

大きいプレッシャーのもとで、心身ともすり減らして仕事をしていると、仕事に背中を向けたくなる時もあるだろうと思う。

そんな時に取り違えを避けるべきは、その背中を向けたくなる理由が、

①仕事そのものの先に自分が実現したいものがないからなのか、

②自分のパフォーマンスが低いからなのか、

どちらか、ということだ。

今の仕事はそのままで、自分がスムーズに頼まれたことを処理でき、マネージャやパートナーから高く評価され、感謝されるシーンを想像してみる。

それで仕事から背中を向けたくなる気持ちがなくなるのなら、②だ。

だったら成長しなくてはならない。共に仕事をする周りに自分を理解してもらい、期待値を適正にすることも含めて、常にアウトプット>期待値、でい続けるための打ち手を練り、実行しきらねばならない。

もし周りに高く評価され、感謝されていたとしても、その先に自分が実現したいものがない、(周りに認められても)自分で認められない気持ち悪さがあるのなら、①だ。

だったら自分の実現したいものにつながる仕事をしなくてはならない。

もし、今の時点で何が実現したいかわからない、というのなら、少なくとも仕事の範囲においてやるべきことは②と同じだ。

周りに高く評価されることは、周りが与えてくれる機会の質と量を高める。そうした機会が、自分の実現したいものを見つける助けになってくれる可能性はいくらでもある。

もし、こうしたことを冷静に、自分に素直に考える余裕も失っているのだとしたら、パフォーマンスの改善も何も、何をどうしていいのか皆目検討つかず、ただ闇雲に長時間労働し、アウトプットが相手の期待と噛み合わず、フリーズしてしまうことが増えているのだとしたら、

そのときは、一度、ゆっくり休んだほうがいい。

このサイクルに耐えられる期間は、自分が思っている以上に短い場合が多い。

家をデュアルモニタにする

慣れるもので、会社でデュアルモニタで仕事をしていたら、その方が効率的に感じるようになり、家にも導入。

画面を縦にできるのもいいなと。

#慣れるものとは思いつつ、トラックポイント以外のポインティングディバイスには手が出せない

 

積極的受け身の限界

積極的 or 消極的、と、能動的 or 受動的、というのは別の軸で、積極的×受動的というセグメントは、居心地が良くて居座ってしまいがちだけど成長に限界がある、という話。

積極的×受動的

それは、積極的に相手のインプットに依存するということ。

相手に対して、アウトプットの具体的なイメージ、納期、使えるリソース、プロセス、プロセスにおける作成物のイメージ、等々を確認し、それを咀嚼し、例外や論理的なエラーが見つかれば、そこをどうするのかを確認する。

正しいことをしているように見えるし、実際に仕事を受ける上で必要なことも多分に含まれている。

問題は、上記のコミュニケーションにおいて受け身だということだ。こういう場合はどうするのか、ここは抜けていると思うがどうするのか。問こそ発すれ、その中身についてどうすべきと考えるのかを提示する等の能動的なふるまいはない。

自分がアウトプットする上での不確実性を排除できるし、論理的に誤った話はしていないし、結果、アウトプットはインプットを受けたとおりのものが効率的にできる。なので本人には達成感もあるし満たされる。

他方、仕事を依頼する立場からすれば、勿論相手と場合によってはそのやりとりがアウトプットの品質のブレをなくすので助かる側面もあるが、自分がオーダーしたとおりのアウトプットが当たり前にでてきた、という域を超えない。

インプットを詳細にすればするほど、依頼する仕事は頭を使う種類のものから手を使う種類のものへシフトしていくからだ。

自分の仕事の不確実性を排除し、頭ではなく手を動かす仕事に安住することなく、能動的にやるべきことを見つけ、必要なプロセスやリソースを定め、実際にアウトプットしていく、積極的×能動的、のセグメントにうつらなければ、成長の壁、自分の提供価値を高める壁、はすぐに現れる。

キャパオーバーの忙しさがムダを省いてくれる、unlearningを助けてくれる

気がつけばもう2015の10%以上が過ぎているこの頃。色々な波にもまれているなかで気づいたことをざっと書いておきたい。

寝る時間がとれないくらいの量の仕事を抱えるのって大事だなと。少なくとも自分にとって。

そうしないと時間の密度を上げらないから。何がその仕事のキモなのかを研ぎ澄まさず程々に仕事をしてしまいそうになるから。

仕事を単純に24×7のカレンダーにはめ込むと、あれ足がでちゃうな、収まりきらないなという状況にあってはじめて、時間の密度を上げること、何がキモであり、何を”捨てていいのか”、”捨てなくてはならないのか”を考えれる。

そして、その捨てるべきものは、何も仕事の内容に限った話ではない。自分の仕事の仕方も然りだ。計画の立て方も、その中でのコミュニケーションのとり方も、分析や資料化のツールの使い方も、それまで自分が自然とやっていたやり方をもう一段も二段も高めてくれる。そうしないと終わらないから。

制約がイノベーションを生む

という話に通じるものを感じる。

似たようなことは過去にもブログに書いていたけど、そうやって自分を高め、それでもまださらっとはやりきれない仕事にチャレンジして、自分を高めて、というサイクルはどこかで終わるたぐいのものでもないんだろうなと。自分を高めるという話に、仲間の作り方、仲間との動き方、というものも含めて。

で、そうした忙しさが自分の理想の高さによってもたらされるものであったなら、なおのこと歓迎すべきものだなと思う次第。