「真のリーダーシップ」とは、自分で考え、信念に従って行動できること

2年程経つだろうか。読書の優先順位を下げた。これまで年平均120冊程度の本を読んできていたと思う。それを1/10以下にした。勿論どちらも仕事での必要性から参照するといった話は除いている。雑誌や簡単に読み終わるボリュームの軽いものは時間をつくって読んでいる。
COURRiER 7月号の中に、リーダーシップについてとても良い記事があったので書き留めておきたい。2009年、米国の陸軍士官学校ウエストポイントで、イェール大学の元教授ウィリアム・デレズヴィッツ氏が講演の内容だ。タイトルは「孤独とリーダーシップ」。
以下に自分に響いた個所を中心にまとめるが、是非実際の文章にあたっていただければと思う。

彼はいくつかの例を示しながら、現代のリーダーは優秀な羊であるとする。「考える人」がいない。物事を自分で考えられる人がいない。ビジョンを持った人がいないという。そして、「真のリーダーシップ」とは、自分で考え、信念に従って行動できることであるとする。
そして、「考えること」を学ぶためにどうすればよいかとを論じる。
そもそも「考える」とはどういうことか、彼はそれを自分の考えを確立することであるとする。そして、それはfacebookや、twitterや、youtubeをみたりいじったりしながらできるものではないと言う。その中でマルチタスキングについて触れる。マルチタスキングを可能にする知的な能力は存在しない。マルチタスキングはすればするほど能力が下がる。マルチタスキングは「考えない」ことであるばかりか思考力を損なうことである、と。
最初に浮かぶ考えは、いつも誰か別の人の考えであるという。問題に集中し、浮かんだ疑問から離れず、粘り強く考え続け、自分のあらゆる思考力を総動員してはじめて、独想的な考えに辿りつけると。脳に物事の関係性やつながりを見ださせ、ひらめくような機会を与えねばならないと。
そうして生んだ考えについて熟考する時間がまた必要であるという。何かを間違えたり、その間違いを見つけたりするための時間であり、過ちを正すための時間であり、衝動的な考えに流されずに考え続け、考え終わったと断言して次に進もうとする欲求に打ち克つための時間である。
こうした考える時間をとり、その答えを見つけるために「孤独」が必要であるという。邪魔や圧力のない孤独の中でこそ、自分のなかにしかない答えを見つけられると。
そしてエマソンの言葉を引用する。

「集団を鼓舞し、率いる人間は、他者の魂と同調することがあってはならない。また他者の志向を生きたり、取り込んだり、読んだり、新聞に書いたり、彼等の使い古された考えに縛られたりすることがあってはならない」

次に彼は「友情」の大切さに触れる。もう一人の自分と呼べるほどの仲間を持ち、彼/彼女との対話を通じて内省をすると。
たとえどれだけ多くの人に相談しようとも、決断できるのはリーダーのみであり、そのときにリーダーが頼れるのは自分しかいないのだ、と結ぶ。

世界中の人とつながることができるようになった素晴らしい今という時代にあって、その一方で自分の内側とのみ向き合える時間は減っているのかもしれない。twitterやfacebookの使い方・それぞれの目的に対する活かし方を学ぶの有益だ。その一方で、僕達は自分との会話の仕方、自分の心深くとのつながり方をわかっているだろうか。つながれているだろうか。
リーダーシップの旅という書籍の中で、リーダーシップは3つあると論じられている。リード・セルフ、リード・ピープル、リード・ソサエティだ。その中の最初の段階、リーダーシップの核となる部分、自分で、自分をリードできるようあり続けるために、上記、孤独を確保し、考えることに集中すること、内省できる深い友情を持つことは非常に大切であると思う。

Ignite the motivation

備忘録。
最近はインドをはじめ海外の同僚と仕事を共にする事が多い。そんな中で、何度も、彼等が目を輝かせる瞬間、彼等のモチベーションでありパフォーマンスでありがぐっと伸びる瞬間を目の当たりにしてきた。何も意識せずにいたことだけど、自分が何をしてきたのか、思い当たるふしをメモとして残しておきたい。
■相手のひととなりを知る
僕は人に興味がある。なので仕事に限らず(むしろ仕事以外の分野の)質問をいつもしている。仕事であればこれまでどんなキャリアを歩んできたのか、転換期があれば、それはなぜ訪れたのか、そしてなぜその選択をしたのか、その結果どうなったのか、それをどう感じているのか。いい意味/よくない意味で印象深い仕事は何だったのか、それはなぜか。印象的な上司・部下はいたのか、それはなぜか、等々。全てを自分が質問したわけではない。相手から話してくれることが多い。しかし仕事を共にしていると、相手の、ここに書いたような質問の答えを掴んでいる。
僕は写真が趣味なのでカメラを持ち歩いている。そうするとカメラについてつっこまれる。そしたら相手の趣味の話になる、家族の話になる、生まれた土地や生い立ちの話になる、国の特徴の話になる等々、全てがカメラ起点ではないけど話しているうちに、仕事以外でも話題は広がる、頭にはいってくる。
そんな話をしていると、自然と相手の性格を掴む、どういう姿勢で接するのが相手にとって心地良いのか(どういう話の流れで饒舌になるとかならないとか、笑顔になるとか眉間にシワが寄るとか色々)がわかる。勿論新しい反応があるたびにアップデートされていくが。
■目の前の仕事に直接関係のない不満をみつける
相手によるが、これまで仕事をしてきた海外の同僚の多くはネガティブな言葉を使わない。自然と何事もポジティブに表現するように感じる。しかしその中にあっても表情が曇るときもあれば(間接的に不満を教えてくれるときもあれば)、とても慎重に(あくまで個人の意見だけど、君と僕だけの間の話だけど等)本音を打ち明けてくれる時がある(直接教えてくれる時がある)。多くの人に共通だと思うが、そういった、普段と違う相手の側面を見ると否が応にもそれは自分の中に、他の情報よりも深く刻まれる。きちんと理解するために丁寧に質問をしたくなるし、共感を示したくなる。それは素直にそうする。そして最後まで話を聞き続ける。
目前の仕事に直接関係のない不満をみつける、と書いたのは、直接関係のある話は解決しても目を輝かせる瞬間は往々にして訪れないからだ(当たり前ながら、ありがたく理解し、解決しなくてはならないが)。
■目の前の仕事に(少しでも)不満を解消できそうなアレンジを加える
少しでもいい、相手がいだいている不満を少しでも解消するようなアレンジを目の前の仕事に加える。例えば、”これまでずっと現場の仕事をしてきた、でも最近は机上でのリサーチ・分析ばかりだ。現場にいたときはもっと事前に情報収集をして、分析して、それからアクションだと思っていたのだけど、机上でのリサーチ・分析に偏ると、今度はやはりファクトは現場にある、現場を知らずして分析もなにもあったものじゃないと思えてくる” という不満を相手が抱えていたら、現場を感じられるアレンジを少し加える。インタビューのタスクがあったらそこに引っ張り出すとか、コンシューマー向けの話をしているときであれば、ランチの時に外に出て、プロジェクトに直接関係なくても類似の店舗なりにぶらっとはいって、意見を仰ぐとか。
不満の裏側にあるやりたいことと、自分に求められたことが少しでもかすると、その瞬間にヤル気に火がつくことが多いのだ。
■目を輝かせている相手との会話を心から楽しみ、感謝する
そしてヤル気に火がついた相手との会話を楽しむ。実際に圧倒的に楽しい。あいての熱でありワクワクがひしひしと伝わってくるし、それは自分に伝染することが多い。相手がそうなることは嬉しいことこの上ないと思う。素直に相手に感謝する。多くの場合、一度上記のように火がついた人間は、これまで不満をいだいていた仕事のパフォーマンスも一気に上げるし、感謝する点はいくらでも見つかる。
自分を省みる。それ程の不満を現状に対して抱くことができているだろうか。本当に満足している状態が上記のように目を輝かせた状態なのであれば、普段の自分の眼は常に輝いているだろうか。満足を忘れ、不満を忘れ、ただ可も不可もない中で生きているだけになっていないだろうか。
散らかった日本語になってしまったが以上、備忘録。

告別式

今日は、Globisで経営戦略を共に学んだ方の告別式だった。
心不全であったと聞いた。歳は40位。クラスでのディスカッション、飲み会においてもいつも笑顔が絶えず、穏やかに濃いメンバーの話をキチンと聞いてから意見をくださる方だった。穏やかな語り口で発せられる意見の裏には、幅広い知識があり、練り上げられたロジックがあり、学ばせたいただいた点を数えればきりがないほどだ。
2月に久しぶりにお会いした席でも変わらず元気で、同年代のクラスメイトの方にマラソンに誘われ、(断りきれず?)笑顔でやろうやろうと言う話をされていた。
その後、仕事に関してご相談いただいた件もあり、メールのやり取りも何度かさせていただいていた。メールボックスには今もそのメールが残っている。見返せば、若輩である僕に対しても大変丁寧な口調でご相談をいただいていた。3月終わりの僕からのメールがやりとりの最後となっている。大変お忙しい日々を送られていたと聞いた。
本来であればご夫婦で、昨日から海外へ行かれている予定であったと奥様からの言葉にあった。それが朝起きてみると、と。何がおこったのか、と。ただ苦しまずに旅立つことができたのがせめてものことであると思いたい、と。とても気丈な立ち振る舞いであり、言葉であった。ただ、その姿に、そして言葉の端々にある、前向きに解釈したいという願望の域を越えない表現が、過去の行動を省みる表現が、本当の気持を伝えられていたのではないかと思っている。
心よりご冥福をお祈りする。
僕ができることは、この方とお会いする前後で生まれた変化、そしてこの方がおられた時とそうではないこれからの間の変化ー今日という日の経験も含め、を丁寧になぞり、これからの自分にいかしていくことであると思う。
僕は、自分の人生の中で、何をするにしても、気が付けば健康に生きることを前提に考えていた。全ては自分の選択と実行(リソースをどれだけ投下するか / 効率を上げるか)だと考えていた。
しかし現実はそうではない。
それは健康に生きられるかどうかという点にとどまらない。
全てが自分の選択と実行だという点に関してもいえることがある。
その自分というのは決して自分だけの力でそこに生き、考え、行動できているわけではないということだ。産み、育ててくれた親は勿論、共に育ってきた兄弟であり、支えあってきた仲間であり、導いてくださった先達であり・・・無数の方々の存在があって初めてその現実に存在し得ているということだ。
そして、そういった方々に支えられる過程で、自分の中に、生きることに対する責任も生まれるのだということだ。
今までそういった責任というのを自分に感じることはおそらくなかった。しかし今日、その責任というものを感じずにはおれなかった。
人によるのだと思う。しかし、上記のような責任を背負って生きるからこそ、思い通りには容易に行かない人生にあって、いかなる困難があろうとも己の光を失わず、そこに向かって道を拓き、歩み続けることができるのではないだろうかと思う。
僕はきっと大切なことを教わった。