マネジメントのプロというキャリア -何をしないべきかを明確にする-

クリスマスが近い。

さて、短期間アメリカを訪れ幾人かのエグゼクティブの方々とお会いしてきた。その時間を通じて感じたのがマネジメントのプロというキャリアの存在だった。不思議なもので、これまでの仕事の中でそういった方々と対面してきたことは多く、またIESEでのケーススタディでもそういった目線で考え意思決定をすることが求められていたはずなのだが、実際にそういうキャリアの存在を知り彼らの行動様式から学ぶ過程で得られた気づきは多かった。

特に印象に残っているのは、何をしないか、という話だ。

1:1で会話をしている時に、彼の描く戦略であり課題認識でありの話になった。ちょうど経験のある分野だったのでどういう打ち手が考えられるかいくつかオプションを話した。で実行の際には云々かんぬんと。その際に彼が言ったのが上記に関するものだった。”マネジメントに求められるのはまずはゴールを描くことであり、次に課題を特定すること、そしてその解決に適切な人を配置し、彼らが存分に活躍できる環境を整えることだ。そのために、ある特定の課題解決の細部へは入り込まない方が良い”と。

理解と違和感の双方が生じた。違和感は後に消えた。

理解はそのまま。マネジメントのミッションはその組織を率いて結果を出すことであり、まず大切なのは自社にとって目指す意味のあるゴール(>最低限達成すべきゴール)を描くことだ。個人で成し得るようなものではないのだから、組織の力が最大限発揮できる環境を整える必要がある。そのためには自身で重要な課題を設定しぶらさないようにすることも求められるだろうし、その解決に向けて適切な人を配置し、やる気に火をつけ、重要な意思決定をタイミングを含めて適切に行い続ける必要がある。

違和感を覚えたのは、自身のこれまでの経験とのGAPに起因していた。自分がマネージャの経験をしたのは小規模の組織(10名弱のプロジェクト)だ。目的であり課題仮説でありプロジェクトに必要な期間とリソース等定義し、仲間をアサインし、一緒に走ってきた。その時には、勿論結果責任は負う(厳密にはパートナーが負うが)し、自分もタスクの一部を直接担当してきた。やるべきことは定めて、それにチーム一丸でタックルしてきた。

自分がマネジメントに集中するために何をしないべきか、という考えはなかったのだ。その考えを要する規模の組織ではなかったと思うし、そのような性格の組織でもなかったのだと思う。

それが何十人何百人何千人という組織になり、プロジェクト型のみの組織でもなくなり、となってくるとゴールを掲げ組織のパフォーマンスを最大化しゴールを達成し続けるという仕事に集中する人材が求められるようになり、それがマネジメントのプロなのだろう。そのミッションを背負えば自ずと個々のタスクのディテイルに入り込むべきではないのだろう。1日24時間の時間の使い方を考えればそうなるのではないかと想像がつく。

今更なのかもしれない。しかし重要にして新鮮な気づきであったと思っている。

志を育てる

昨日は外資系コンサルティングファームの日本法人を立ち上げられ、1桁台の組織からスタートし4桁台にまで大きくされた方がIESEへ来訪され、お話をお伺いする機会を頂いた。とてもシンプルに研がれた内容の話をゆっくりと、堂々と、笑いをまじえながらお話される姿を見ているだけでも学ぶ点は多かった。

リーダーのなすべきことに関してもお話をいただいた。最も大切な点はその際の最上位のレイヤーにあった内容、MissionでありVisionでありを掲げる、ことであると感じている。掲げた/掲げられたそれらを実現するための知識でありスキルでありコンピテンシーでありは学び修めることができる。MBAもその手段のひとつだろう。一方この、MissionでありVisionでありを掲げること、は学ぶものではないように感じるからだ。そしてそれがなければ、社会・組織はおろか自分自身であえもリードすることはできないと考える。導く方向がないのだから。

MissionでありVisionからして生み出せる人間こそが強く求めらるようになっていると感じた。自分たちに背中を見せてくれる存在に追いつこう、そして追い抜こうとしていた時代は(とうの昔に)過ぎ、かつ日本国内だけに集中しているだけでは成長どころか過去と同様の富を維持することすらままならない。世界をより豊かにするポテンシャルを持っているにもかかわらず、だ。だからこそ日本国内だけではなくグローバルでのコンテクストに鑑みた、後追いではない自身たち固有のMissionでありVisionでありを掲げる必要性が一層強まっているのではないか。それが求められているリーダーなのではないか。そう感じた。

それだけのことをするのにまず必要なものは高い志なのだろうと思う。若くしてそれだけの高志を抱き実現に人生を捧げられる方もいる。少数だと思う。多くの人は自分の経験を通じて、新たな外部環境とのつながり、それを咀嚼する内部環境の進化を経て、自身の志を高次に押し上げ、実現に向けて邁進し、その過程で変化を経て、という軌跡をたどっているのではないだろうか。

自覚の有無にかかわらず、人間はその時々で自身の望む選択をし続けていると思う。行動がその人の志を語っているとも言えるだろう。なのでその行動を変えていけるように、自分がなぜその行動をとるのか、その先に何を望んでいるのか、それは自分が本当に重なりたい未来なのか、そのような問いかけを自分に投げかけながら、新たな経験に臨み続ける必要があるように感じている。

自分の持ち味を知る

働いているスタートアップでは、戦略を練りながらパートナーシップの交渉をしながらサービスのテストをやっている。簡単な話ではないが、戦略をつくるということはこれまで経験があることなので頭を捻りながら前に進めている。交渉に関しては手探りながら進めている。自覚していなかった自身のクセも見えて新鮮だ。サービスのテストをやっていると色々と気がつくことがある。ITに携わっていた頃の経験から、自分の中のシステム開発のあるべき像と目の前の現実のGAPに引っかかるのだ。

自分が携わってきたのは大企業のプロジェクトマネジメントだ。Startupの開発とは違うだろう。時代も違う。開発手法だって進化を遂げている。そう思いながらサービスをいじっていたがどうにもひっかかる。あれこれどうなってるのか気になる。自分の経験が警笛を鳴らす。このまま進めていていい理由が見当たらない。トラブルのシーンが浮かぶ。一方で時間を含めてリソースは限られているのだろう。しかし何もドキュメントを1から10まで耳を揃えてつくる必要なんてない。ただ、最低限必要と思われるものはあるのだろうかと(あるならテストで使うはずだから、でてこないってことはないんだろうなと)。

ということで創業メンバーに質問する。こういうドキュメントがあったら欲しい。それがないと満足なテストができないはずだから、もしないならあったほうがいい。加えれば後これとこれはドキュメントとしてあった方が良いのだが、今のところどうなっているのかと。

結論なかった。そしてできたら今後どういう局面でどういうドキュメントが必要になるか教えて欲しいという話になった。それが理由まで含めてわかれば、リソースに鑑みてどのドキュメントをどこまでつくる/つくらないという判断ができるからだ。

フレームワークと同じだと思う。どういう局面で、そのフレームワークが、何のために必要となるのか(利用できるのか)。それがわかれば状況に応じてそのフレームをそのまま使うのか否かから考えることができる。創業者のバックグラウンドはプログラミングを担当している人間を除いてITバックグラウンドではなかったと記憶している。金融バックグラウンドのMBAと後はどうだったかな。要確認。

 

極少数で多くのタスクを並行して進めているのでこういう状況は往々にして起こりうるのだろう。そいういう時に今回のように自身の限られた知識でありスキルであり経験からでも必要な仕事をつくり、やっていく。そういう姿勢が必要なのだなと、言葉ではなく身を持って感じた次第。

これまでの自分の経験を振り返って、仕事に関して受け身でいたという自覚はなかった。だが、コンサルティングの経験をして、MBAにきて、Startupで働いてみたらいつの間にか自分の仕事は戦略をつくりその実行を支援することだという思い込みができあがっていたようだ。

僕はキャリアをシステムエンジニアとしてスタートしている。自らどっぷりコーディングをした経験は多くはなく、かわりに多くの時間をプロジェクトマネジメントでありそのサポートに費やしてきた。所属組織の対象顧客企業が中小企業であったので、大規模システム構築を前提としたマネジメントプロセスをどのようにして中小規模のプロジェクトにアジャストするのか、その中で妥協してはならないポイントはどこか、というような点は現場で学んできたのだと思う。あくまで学んだに過ぎない。百戦錬磨のシニアなマネージャと比べれば理論だけ必死で叩き込んだ頭でっかちでしかなかったろうから。

今思えば良かったのはパッケージSIではなくカスタムSIプロジェクトであり、最初にデータの流れを徹底しておさえる方法論を学んだという点だ。その後、そこから時代の流れに応じてWebアプリケーション開発であり、ウォーターフォール型ではなくて繰り返し型の開発でありという話を学んだ(かじった)。

それでもその経験に、ITから戦略までのコンサルティングの経験を足し、今IESE MBAでの経験を足している。

自分が何でできあがっているのか、個性等ソフト面を抜きにした経験だけみても、決して戦略をつくって実行を支援するだけが僕の持ち味ではないのだろう。今の自分が過去の経験から再度学べることも多い。過去と今とでは持っているレセプターが異なるから。

 

ということで、自分の価値を限定することなく、自分の持ち味は全て発揮する必要があるし、そうであってこそ一層エキサイティングな仕事をしていけるんだろうなと感じた次第。

器用貧乏とは自身の努力と才能を超えるビジョンを持たずにその領域にとどまっている人のことではないか

と言おうと思い器用貧乏の本来の意味を確認した。まず先に言わねばならないのは、器用貧乏の本来の意味、辞書的な意味は

何事も一応はうまくできるために一事に徹底できず、かえって大成しないこと。また、そのような人。
(goo辞書)

だということだ。他方、一般的に使われている、僕もこう考えて使っていた意味は

大概のことを並かそれ以上でこなせる反面、突出して優れた分野も持ち合わせていない人、又はその状態。全てにおいて1.5流。
(はてなキーワード)

であった。なるほど。ということで本題へ。

器用貧乏という言葉を聞くことがしばしばある(思い返せば確かに前者の意味での器用貧乏になりかけていた仲間もいた)。その会話の流れを思い返して思ったのが、器用貧乏とは自身の努力と才能を超えるビジョンを持たずにその領域にとどまっている人のことではないか、ということだった。

新たなチャレンジに直面する度に、自身に求められる能力が変わる度に、自分に足りないものはいくらでもでてくる。もちろん才能と努力がそれを自分に備える時間を短くし、その質を高めてくれる。にしても、だ。それを繰り返していると自身を器用貧乏だとは形容できなくなる。器用でない自分が何度でも自分に晒されるからだ。器用でないことを自覚せざるを得ない。

必要な能力が自身の能力を超えている状態に臨むことをチャレンジだとすると、器用貧乏だという人はチャレンジをしていないということに他ならない。

チャレンジするしないは人の自由だし、万人に必要とも思わない。なので器用貧乏という言葉がネガティブな意味だとも思わない。捉えようによっては素晴らしいことだと思う。

ただもし器用貧乏だということを悩むことがあるのだとしたら、それはただの怠慢だ。自身の才能と心地よい程度の努力の中に安住しながら、なんとなく不満を口にしているに過ぎないからだ。

現状に満たされ幸せを感じることと、現状の自分では到達できない高みを目指すことは or ではない。そして自分が人生を通じて何を目指すのか、何を成し遂げたいのかを決めるのは自らの自由だ(スタート地点に差があったとしても)。

今いる環境、与えられている環境にいて自分が器用貧乏だと感じそれに違和感を覚えるのであれば、自身がその環境にいる目的を見なおすべきだ、そして/もしくはその環境を直ちにかえるべきだ。

思い返せばチャレンジの真っ只中にいるときに、自分の能力云々などと考えている余裕はなかったはずだ、ゴールに向かって一心不乱に走り続けていたはずだ。

 

器用貧乏という言葉からふと思った次第。

[書評]不格好経営

image_不恰好経営
不格好経営―チームDeNAの挑戦
南場 智子 (著)

どうしても読みたかった。そして読んでよかった。

マッキンゼーを辞してDeNAを立ち上げ今日に至るまでを、南波氏らしい軽快にして濃密な文体で綴っている。胸を熱くするシーンあり、思わず吹き出して笑ってしまうシーンあり。ただ、こうして彼女たちチームDeNAの、度重なる挑戦と毎度のように迫り来る苦難、それらを乗り越えその経験を糧に成長し、更に大きい挑戦をする、というノンフィクションにひたすらに触れていると、自分を自然と省みる。

彼女の考え方で印象に残っていることが3つある(自身の理解を書いているので実際は著者は異なる言葉遣い・表現をしているだろうと思う)。

1つは個人のキャリア、成長について。自分が成長できるかという視点で仕事をみるな、仕事にあたるなということだ。それは後からついてくることであり、目的たり得ない。目的は別にある。ということだ。

そう思う。社会人になって間もない頃、今思えば自分の成長が最大の関心事であった時代がある。でもこれまでの経験を振り返ると、自分が最も成長したと思える体験は、その渦中にいるときは自分の成長なんて微塵も意識していなかった(できる状況になかった)ものだ。だからといってそれを求めて修羅場に入るのもおそらく何かが違う。見ているものが違うのだ。

 

1つはコンサルタントと事業家の違いについて。彼女は本書の中で経営者になるために戦略コンサルタントになろうとする人を、プロゴルファーになるためにゴルフレッスンのプロになろうとしているようなものだ、と言う。そしてできるコンサルタントはその違いをわかっている。コンサルタントだからできないこと、できることをわかった上で仕事にあたっているという。

納得する。コンサルタントを離れ留学し、いろいろな経験を得ている。それらを通じて、上記に気づいた。自身がいざひとつの事業テーマに責任を負う立場になってみると、コンサルタントとしてそういう立場にあるクライアントに接していた時とは多くのことが異なる。自身がドライバーを握りフィールドに立ち、ボールを打ち、スコアに責任を負う立場と、それをいろいろな角度から眺め、情報を集めて、どっちを向いて、何で、どう打つべきですよ、と助言する立場ではあまりに違う。それにしてもこの喩えは秀逸だと思う。できること、やるべきことがプロゴルファーとプロコーチで違うことも一目瞭然であろうし、そのために必要なスキルが異なることも白明だろう。

 

そして1つはチームワークについて。彼女はマッキンゼーのマネージャ向け研修でメンバーを16種類のタイプに分けて接し方を分ける手法を米国で学び、それに嫌気がさして初日が終わってから日本に帰っている。その理由は、なぜ自分が寝食を共にするほど長時間共にいる仲間を、たかだか16種類に分類してその接し方に当てはめる必要があるのか、というものだった。そして彼女は自分たちが最初の成功体験を迎えた時の、ゴールが全く異なる個々人が重なり、最高の笑顔になる瞬間からチームワークでありリーダーシップとはこういう瞬間をいかにつくりあげるかなのだという考え方に至っている。

その通りだと思う。僕も昨年MBAのオリエンテーションにおいてクロスカルチャーからなるチームのパフォーマンスをいかに高めるかという話の中でいくつかの思考パターンや表現のパターンを学んだ。しかし強く違和感があった。目の前にいるメンバー、毎日を共に過ごすメンバーがいるのに、なぜ彼らから学ぶ前に先入観をもたせるような情報を与えるのかと。彼らが個人的に、そして文化的にどう異なるかは、チームワークを通じて学ぶものではないかと感じたからだ。これに関しては、IESEでの1年を終えてのエントリーのチームからの1番の学びとしてまとめている。

 

全体を通じて南波氏のDeNAであり仲間であり、そしてここに至るまでにお世話になった方々へのたくさんの愛であり感謝を感じる。

僕も自分の道を全力で行かねばと気持ちを新たにする。