器用貧乏とは自身の努力と才能を超えるビジョンを持たずにその領域にとどまっている人のことではないか

と言おうと思い器用貧乏の本来の意味を確認した。まず先に言わねばならないのは、器用貧乏の本来の意味、辞書的な意味は

何事も一応はうまくできるために一事に徹底できず、かえって大成しないこと。また、そのような人。
(goo辞書)

だということだ。他方、一般的に使われている、僕もこう考えて使っていた意味は

大概のことを並かそれ以上でこなせる反面、突出して優れた分野も持ち合わせていない人、又はその状態。全てにおいて1.5流。
(はてなキーワード)

であった。なるほど。ということで本題へ。

器用貧乏という言葉を聞くことがしばしばある(思い返せば確かに前者の意味での器用貧乏になりかけていた仲間もいた)。その会話の流れを思い返して思ったのが、器用貧乏とは自身の努力と才能を超えるビジョンを持たずにその領域にとどまっている人のことではないか、ということだった。

新たなチャレンジに直面する度に、自身に求められる能力が変わる度に、自分に足りないものはいくらでもでてくる。もちろん才能と努力がそれを自分に備える時間を短くし、その質を高めてくれる。にしても、だ。それを繰り返していると自身を器用貧乏だとは形容できなくなる。器用でない自分が何度でも自分に晒されるからだ。器用でないことを自覚せざるを得ない。

必要な能力が自身の能力を超えている状態に臨むことをチャレンジだとすると、器用貧乏だという人はチャレンジをしていないということに他ならない。

チャレンジするしないは人の自由だし、万人に必要とも思わない。なので器用貧乏という言葉がネガティブな意味だとも思わない。捉えようによっては素晴らしいことだと思う。

ただもし器用貧乏だということを悩むことがあるのだとしたら、それはただの怠慢だ。自身の才能と心地よい程度の努力の中に安住しながら、なんとなく不満を口にしているに過ぎないからだ。

現状に満たされ幸せを感じることと、現状の自分では到達できない高みを目指すことは or ではない。そして自分が人生を通じて何を目指すのか、何を成し遂げたいのかを決めるのは自らの自由だ(スタート地点に差があったとしても)。

今いる環境、与えられている環境にいて自分が器用貧乏だと感じそれに違和感を覚えるのであれば、自身がその環境にいる目的を見なおすべきだ、そして/もしくはその環境を直ちにかえるべきだ。

思い返せばチャレンジの真っ只中にいるときに、自分の能力云々などと考えている余裕はなかったはずだ、ゴールに向かって一心不乱に走り続けていたはずだ。

 

器用貧乏という言葉からふと思った次第。

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