人を助けるということ・支えるということ

苦しい状況に立つことは自分も含めて多くの人が経験することだと思う。そんな状況に自分が立つと、その状況に立った人にとって何が助けるということであり、何が支えるということであるのかがとてもよくわかる。その逆も然り。
助け方・支え方としては大きく3つあると考えている。
1. 軽いトーンで方向を明確にする。
苦しい状況にたっときに視野が狭くなる、もしくはみえているのに認識できない、思考に反映されない状態になるということはよくある。そんな時に、こうなってればいいんだよね?この問いに答えられたらいいんだよね?こんな感じのことをすればいいんじゃないかな?と軽く質問をしてみたり会話してみたりしながら方向を明確にしていくことは相手を助ける。方向が大筋でもみえれば、そこに辿り着くために必要な構造が見える、構造が見えれば、必要な情報やらが見える。だいたい方向性で悩んでいるケースは、情報は大量に調べて抱えていたりするケースが多いのでこの後はすごいスピードで進められたりする(結果足りないものが見えて次の山にぶつかることもあるが)。
逆に、要するにどうなってればいいと思ってるの?ゴールは?といった相手を叩くようなコミュニケーションは相手を助けない。それが明確にできていれば、筋道を立てられていれば、少なくともどうしていいの過途方にくれるような状況には陥っていないのだ。自分でわからないと自覚していることを問い詰められるのは人間とても苦しい。
2. 軽いステップで一緒に歩く。
方向は分かっていても、その道程が険しすぎてもしくはゴールが遠すぎて”どうしたものか?”と立ち止まってしまう、やることはわかってるがどうにも手につかない、という状況に陥ることはおそらく誰しもあるのではないかと思う。そんな時に、まずこんな感じでやってみよっか?あ、ここはこんな感じじゃない?じゃあちょっとオレそのイメージ書いてみるよ、といった軽いノリで一緒に歩くことは相手を助ける。いざやりちょっとでもはじめられれば、手につかないという状況は往々にして解消されるのだ。
ただここで、相手の考えを無視して自分の意見を押し通すと逆効果だ。相手が迷子になってしまう可能性が高いし、押し通された意見も加味した結果より一層やらなくてはならないことだけがみえてしまって、より一層一歩が踏み出せなくなる。勿論必要に応じて軌道修正なのだが、相手頭の中にあるゴールや筋道に素直に従って、軽いノリでちょっと一緒に手を動かす。一緒に歩き始める。それが相手を助けることになる。
3. 相手の話をすべて聴き、軽く肯定的な言葉を返し続ける。
ゴールは明確なはずだ、筋道も立ててやっているはずだ。だからこれでいいはずだ。ただ、ただなんかこれでいいのだろうか自信がないような気がする。という状況には、ストレッチをしている人間は少なからず陥ることがあるとこれまでの経験から考えている。後は、平たく言うとてんぱってしまっているパターン。これらの場合はクリティカルに議論を展開することなく、まずはひたすら、なるほどなあ、うんうん、あーそうだよねっ、と全て受け入れるスタンス、肯定的なスタンスで話を聴く。その過程で、相手は自分の考えに自信を持つことができるし、てんぱってこんがらがっていた糸はほぐれることがほとんどだ。自信をもって、糸がほぐれて、考える・動くゆとりができてから1なり2へ行く、もしくはその時点で助けが不要であればここでおしまいにする。
自信がなかったり、頭の整理がついてない状態にある人が要するにどうなんだ、何が問題なんだとすっぱり話をすることは難しい。同じく論理的に筋道を立てて状況を説明し、だから具体的にどこをどう助けて欲しいと言うことも難しい。その状態に助ける側がフラストして、要するになに?なにしてほしいの?何が問題なの?と詰め寄ってしまっては一層相手は自信を失ってしまうし、こんがらがってしまう。それでは相手を助けることにはならない。相手をより悪い状況へ落とすことはできたとしても。
全体を通じて言えるのは、相手を助ける・支える時に、自分がそうするために必要な手続きをいきなり相手に投げてはいけないということだ。ただでさえ当人が今置かれている状況に苦しんでいるところに、あなたを助けるために・支えるためにというスタンスで新たな手続きを投げるのは当人をより一層苦しめる。そんなことする余裕はどこにも見当たらないのだから。かといってそれを断ることは、自分を助けてくれる・支えてくれる人の親切心を無下にするという罪悪感まで当人に抱かせてしまうのだから。
一層身動きをとりにくくしてしまうことにしかならないのだ。
特に自分が相手より立場が上の場合はなおさらだ。上から言われたというプレッシャーも上記に加わってより状況を悪くする。
本当にその相手を助けたい・支えたいのなら、その舞台づくりを困っている当人に丸投げしてはいけない(その後自分が困りごとを解消することに責任を負うのなら話は別だが)。そこを丸投げして、より一層苦しい状況に追いつめられてパフォーマンスが下がった人間を尻目にその舞台で大手を振って方向を示し、こんな感じでいけと具体的なイメージを投げ、助けた・支えた気になって悦に入って去っていく(往々にしてこういう人は事態をきちんと理解せずピントがぼけた方向を示しがち)。
これは一切、助けることにも支えることにもならない。
本当に誰かを助け・支えるということは、同じ目線・同じ立場にたって相手を理解し、相手を下から支えて舞台にふたたび乗せて、そこで存分にパフォーマンスを発揮できるようにしてあげることなのだ。

メンターとの再会

気がつけば前に会ってから一年が経っていた。メンターが日本へ帰ってきた。前々から一度話しましょうという話をさせてもらっていたので早速。どんなことを話そうか、離れていたこの期間自分のチャレンジはなんだっただろう、自分の変化・成長はなんだっただろう、インド帰りの重たいからだと少しぼーっとした頭で考えながらその時間を待っていた。
一緒に働いていた時間が長いのと、メンターが特徴的なのと?で、足音で当人が近づいてくるのに気づくことが出来ていたのだけど、その感覚も鈍っていなかったようで案の定実際に部屋に入ってくる前に、”あ、きたな”と感じる。これさえも懐かしく感じる。
いざ会ってみると何を話していいやら聞いていいやら。後から思えば、メンターに促されるまま、自分とチームの過去、近況、チャレンジについて話してアドバイスをもらい、メンターのアメリカでの経験等々の話を聞き、なんでもかんでも話していたらあっという間に1時間が経っていた。
もっと成長したいな、と思った。
#インド旅行記?については後日書きたい。たぶん、書くと思う。

幼馴染と食事

金曜日の夜は幼馴染と食事。偶然にも同じファームにいて、この秋に卒業し、次のステージへ進もうとしている。気がつけばかなり久しぶりの食事になっていた。3年ぶりくらい。時間が経つのは早い。今となっては少数派になりつつある独身の友達であり、仕事にプライベートにと話は広がる。似たところもあればそうでないところもある。昔の像に重ねて、らしいな、と思うところもあれば、変わったな/そんな一面もあったのか、と理解を改めるところもある。
面白かった。

苦しい時に差す光

ということでタフなのですが。改めて身をもって感じたのが、そんな苦しい中で救われたように感じるときは、彼らがなるほどそうかとうなったりするような示唆をだせたときだったり、クライアントからの感謝の言葉をかけられたりしたときだ。
肩がとても軽くなる。また走り出せる力をもらえる。
同時に思うのが、クライアントが唸ること・喜ぶことと、客観的に彼らを見たときに言うべきことを混同してはならない、タフな環境から一時的にでも救われるためだけに前者に流れてはいけないということだ。
(something newを毎回用意するだったりという、価値を感じてもらう・合意形成をしやすくするような演出は時にあるが、演出で肝心の中身をごまかすようなことはあってはならない)
あくまで達成するべきはプロジェクトのゴールであり、その先にあるクライアントの成長への貢献だ。プロジェクトは短期集中で、仮説検証のために様々なチャネルから情報を集め、様々な角度から検証する。仮説は完全に棄却されるものもあるし、進化してより面白いものになっていくものもある。そんな過程では苦しい時もある。その過程でクライアントが喜んでくれたり楽しんでくれるようなネタもみつかる。
そこがふんばりどころだ。
苦しい中で、この話をしたら彼らは喜んでくれる、満足してくれるというポイントが見つかったときに、そこに走り始める前に、本当にそれはプロジェクトのゴール達成の観点からして価値があるのかと丁寧に問いただせるか。往々にして熱が覚めたらその時は喜んでいたクライアントからさえもso what?って言われることは目に見えているのに、苦しさの渦中にいる人間はそれを見て見ぬふりして短期的な安堵を求めがちだ。
一方で、かといって意固地になって彼らの興味をねじふせることなく、”低いところになっている実”として上手く収穫することができるか(チームワーク、モチベーション強化という観点から大切)。
コンサルタントを医師に例えることが時折あるが、自身の不養生は避けたいところ。
#スキマ時間に書いたらまとまりのない状態で終わってしまったきもしつつ、普段とあんまり買わならない気もしたり。。。

苦境から学ぶこと

前回のエントリーでChallengingなタスクがひとつあると書いたが、想定通りにタフだ。苦しいの通り越して笑えてしまう程。
とても幸せなことに、多くの人がsupportiveで、タフな最中ながらもたまに感動を覚えてしまう。勿論いいことばかりではなくて、そんなタフな環境にあっても(いや、あるからこそか)、プロジェクトで証明する仮説であったり、そのアプローチであったりの議論もしばしば感情的にぶつかってこられてしまうこともある。勿論僕も感情的になってしまうこともある。supportiveな風で刺してくるひともいたり(こうしてかいていくとどんな環境なんだって感じなんですが)。
supportiveな方には、既に書いたがときに涙が出そうなほど感謝したくなる。自分が相手に対して今、そして今後どういう貢献ができるだろうかと考える。
ぶつかるべきところは徹底的にぶつかる。それは自分の中でこうすることがクライアントに対する価値を出すために必要なのだと信じているからだし、やりきる覚悟を決めているからだ。で、その結果より良いものがでたら嬉しいことだし、相手の意見がより素晴らしいものだったら素直にそれを受けとる。感謝の気持ちと、(相手に不快な思いをさせていたら)ごめんなさいの気持ちを込めて。
その他ノイズに感じる部分は極力流す。クライアントがいて、価値を出すためのリソースがあって、自分もそのリソースの一部で。プロジェクトの活動効率を損なうものであったなら対処しなくてはならないが、そうでないならば、対処にリソースを使うことはプロジェクトの存在目的に反するから。まあ、キレイに流せないのが人間だとも思うけども。だっていい気しないし(←流してない)。
そんなこんなの中で鍛えられるのは、自分の周りに困っている人がいたときにどうすればその人が嬉しいか、助けられるか、ということに対する想像力と具体的な打ち手の提供力だと思う。
ケーススタディのように、他人の事例から学び自分の場合に備えることができたら良いのかもしれない。しかし、基本的に苦しんでいる状況というのは本人がまず他人にオープンにしない(進んでオープンにしたい内容でないと考える人が多いし、そもそもオープンにする余裕を失ってその状況にあったりするわけだし)。一方で、自分が苦しい状況に置かれると、圧倒的に、そして具体的に苦しみを経験することができる。
そしてそこに立ったときに、何をされたら涙が出るほど嬉しいのか、何をされたら・・・なのかというのはとてもよくわかる。
勿論、何をもたらしてくれる人にもその背景にはその人がいる環境の、その人への力学が存在するし、僕とその人との関係の良し悪しというのも存在する。ポジションの影響もあるだろう。
そんなこんなを慮りながら、自分はこうだったから誰でもこうされたら嬉しいんだなんていう汎化はせず、喜べない反応があった場合も自分を顧み相手の背景や立場に想いを巡らせることを怠らず(辛いときは流しますが)、相手の苦しみに対する想像力と、それを解消する力を鍛えることができると信じている。