苦境から学ぶこと

前回のエントリーでChallengingなタスクがひとつあると書いたが、想定通りにタフだ。苦しいの通り越して笑えてしまう程。
とても幸せなことに、多くの人がsupportiveで、タフな最中ながらもたまに感動を覚えてしまう。勿論いいことばかりではなくて、そんなタフな環境にあっても(いや、あるからこそか)、プロジェクトで証明する仮説であったり、そのアプローチであったりの議論もしばしば感情的にぶつかってこられてしまうこともある。勿論僕も感情的になってしまうこともある。supportiveな風で刺してくるひともいたり(こうしてかいていくとどんな環境なんだって感じなんですが)。
supportiveな方には、既に書いたがときに涙が出そうなほど感謝したくなる。自分が相手に対して今、そして今後どういう貢献ができるだろうかと考える。
ぶつかるべきところは徹底的にぶつかる。それは自分の中でこうすることがクライアントに対する価値を出すために必要なのだと信じているからだし、やりきる覚悟を決めているからだ。で、その結果より良いものがでたら嬉しいことだし、相手の意見がより素晴らしいものだったら素直にそれを受けとる。感謝の気持ちと、(相手に不快な思いをさせていたら)ごめんなさいの気持ちを込めて。
その他ノイズに感じる部分は極力流す。クライアントがいて、価値を出すためのリソースがあって、自分もそのリソースの一部で。プロジェクトの活動効率を損なうものであったなら対処しなくてはならないが、そうでないならば、対処にリソースを使うことはプロジェクトの存在目的に反するから。まあ、キレイに流せないのが人間だとも思うけども。だっていい気しないし(←流してない)。
そんなこんなの中で鍛えられるのは、自分の周りに困っている人がいたときにどうすればその人が嬉しいか、助けられるか、ということに対する想像力と具体的な打ち手の提供力だと思う。
ケーススタディのように、他人の事例から学び自分の場合に備えることができたら良いのかもしれない。しかし、基本的に苦しんでいる状況というのは本人がまず他人にオープンにしない(進んでオープンにしたい内容でないと考える人が多いし、そもそもオープンにする余裕を失ってその状況にあったりするわけだし)。一方で、自分が苦しい状況に置かれると、圧倒的に、そして具体的に苦しみを経験することができる。
そしてそこに立ったときに、何をされたら涙が出るほど嬉しいのか、何をされたら・・・なのかというのはとてもよくわかる。
勿論、何をもたらしてくれる人にもその背景にはその人がいる環境の、その人への力学が存在するし、僕とその人との関係の良し悪しというのも存在する。ポジションの影響もあるだろう。
そんなこんなを慮りながら、自分はこうだったから誰でもこうされたら嬉しいんだなんていう汎化はせず、喜べない反応があった場合も自分を顧み相手の背景や立場に想いを巡らせることを怠らず(辛いときは流しますが)、相手の苦しみに対する想像力と、それを解消する力を鍛えることができると信じている。

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