仕事は楽しく真剣に

さて。少々慌しい日々を送る中で気づいたこと。仕事は楽しんだ方がいい。そして真剣にやった方がいい。
文字を見ると当たり前じゃん!で片付きそうだけど、一方でその違いを感じる経験をしている人も多いのではないだろうか。見ているこっちがわくわくするくらい仕事を楽しんでいる人と楽しくなさそうに仕事をしている人。自分を反省したくなるくらいに真剣にひたむきに仕事と向き合っている人と、なんとなくで仕事をしている人。
自分を省みると、仕事によるというのが正直なところ。楽しい仕事もあればそうでない仕事もある。自然と真剣に自分のすべてをぶつけたくなる仕事もあればそうでない仕事もある。
でもそれではいけない。自分がやると決めたことはとことん楽しんだほうがいいし、とことん真剣にぶつかった方がいい。必ずしもそのスタンスがよい結果をもたらすとは言い切れないが、なんとなく楽しくなく、なんとなく真剣にもならずに取り組む仕事とは大きく異なる。
仕事を、楽しく真剣にやることは、自信へつながる、成長の傾きをあげる、人を巻き込みより大きい成果をえられる。そして楽しい(楽しんでいるのだから当たり前だが)。
仕事を、楽しくないけど真剣に取り組むことは、その真剣さは人に影響を与えることもあるし、自分の成長も大きくなる。ただ、人を心からわくわくさせて巻き込むことはできないし、場合によっては、排他的になり、他人との関係にひずみをうむこともある。そして楽しくない(当たり前だが)。
仕事を、楽しんでいるけど不真面目にやることは、楽しい(当り(ry)。楽しいから興味を持つ人を増やし巻き込むことができる。ただ一方で楽しさだけを目的に集まるケースが多く、困難にぶつかったとき、なにやら楽しくなさそうだという雰囲気がでてきたとき簡単にくじけてしまう。不真面目に取り組んだ仕事は、結果が出せればよいがそうでない場合自分の自信にはならない。自分が真剣に取り組んでいなかったということは他人以上に自分がわかっているのだし。それで結果がでなくてどうして自信を持つことができるだろうか。
仕事を、楽しんでもいないし真剣にもやっていないケース。楽しくない。自信につながりにくい。周りから見ても手を貸すなり自分も参加したいと思わせる理由がない。面白そうでもないし、当の本人は真剣でもない。”何でやってるの?やめればいいのに”という反応を得るケースが多い。それでもやらねばならぬという事由がある場合には理解もしくは同情を得る可能性はある。そこから他人を巻き込めるケースもあるが、やはり巻き込まれる人もその動機は仕方ない・かわいそうというところにあるわけで、その人のパフォーマンスを最大化することは難しい。
仕事を楽しむ、真剣に取り組む、その責任は個人にある。どうにも楽しみ方を見いだせない、真剣に取り組む価値が見いだせない、そういった仕事はしてはいけない。その仕事に自分のかけがえのない人生の一部を使うことはあまりに勿体無い。それをせずして組織からの期待にこたえられない、義務を果たせないのなら組織を変えるか遷るのが良い。
とふと思った。自戒も込めて。

ここ最近の写真

ここのところ記憶が辿れないほど程時間感覚・曜日感覚のない生活をしていた。だけどカメラを持ち歩いていたので撮った写真を見ると2週間前の事が数ヶ月も昔のことのように思い出される。こう書いていて、ここのところといったのがここ2週間程度なのかということにも驚く。
って写真は食事の時のものしかないのだけど。でもその食事をきっかけにその日の出来事を思い出す。こうして余裕がつくれないことにかまけてブログを書かないと、考えたこと感じたことが自分のなかに折り重なっていってアウトプットしづらくなってしまう。かしこまらずに、なにかしらを日々ブログにアウトプットしていきたいと思う次第。

恵比寿さかえや

今日は昼はオフィスで仕事をして夜は恵比寿さかえやへ。そういえば金曜日も鶏料理だったなと思いつつ。焼き鳥と水炊きで違うからいいかなと。水炊きはとっても美味しい。同じく水炊きの美味しい三田獅子丸と比べると、さかえやの方がスープにあまみがあったような気がする。お店の雰囲気というかスペースもさかえやの方がスタイリッシュというか、まあ飲み会向きかな。水炊き以外のメニューだと三田獅子丸の方が美味しかったかもしれない。
どっちも美味しい。
カメラはGRを使っていたのだけど、focusの場所を変えるのが普段のNikonの一眼と比べて手間なのでついそのまま真ん中に合わせた絵が多くなってしまう。操作性、大事だ。そして偶然店員さんもカメラが好きだったようで、かつRicohの他の機種を使っているとのことで、鍋の準備をしてもらっている間はカメラの話。
食べ過ぎて帰りは苦しかった。。。
明日からまた頑張ろう。

教える?

金曜日は仕事を終えてから銀座一羽へ。仕事外のつながりで集まる予定だったのだけど1名当日夕方にインフルエンザ発症のため同僚と2人に。プロジェクトを1度共にしたこともあり、彼女と話しているとその頃から自分は成長できているのか、彼女の成長に自分は貢献できていたのかということを考える。
プロジェクトを進める上でメンバーと共に働くことの多くなるこの頃。相手の成長というのは頭の中には常にある。一方で何かを教えるであるとかというのは、自分が上であり、正解であるという前提に立った物言いのように感じられて何かすわりが悪い。
そして自分がメンバーとしてプロジェクトに入ったときにどういうシーンでなにを学んできたかを振り返ると気づくことがある。それは、学ぶ=教えられるではないということだ。勿論基本的なところはパートナーしかり上の方から具体的に教えてもらうことはある。しかし自分が学んできた過去を振り返ると、その対象は具体的な相手からのアドバイスというよりも、相手のクライアントの成長に対する献身の姿勢であり、そのためのアウトプットの質とスピードへのあくなきこだわりを同じチームで肌身に感じてきた経験からである。
教えるという考え方がおこがましいとか自分が上であるとかそういう次元の話ではない。自分がクライアントの成長に対して、プロジェクトの成果に対して、どこまでこだわりぬくことができるか。その根本的なスタンスが行動を規定し、その自分個人の行動、チームへ求める行動があった結果、そこからメンバーは学ぶのだ。
自分の中でそのような確固たる価値観がなければ(自分でこれが確固たる価値観だ!という自覚がなくとも日頃の意思決定の基準や行動の基準を丁寧に振り返ればそこには往々にして存在する)、キレイなロジックを立てる力も、素早く物事をまとあげる力も、クラアントが言葉にしない期待や問題意識を見抜く力も、ただの単体の力で終わってしまう。
そういった話は必要性を感じれば人は勝手に学ぶ。それらを学ぶためのリソースは世に溢れている。
プロジェクトを共にするチームの中で自分がまず持たなくてはならないのは、それらスキルをチェックする目ではない。クライアントの成長・プロジェクトの成果に対するこだわりと、それを実現するために答えるべき論点、そしてそれらを一貫して体現する行動だ。
これはなにもリーダーに限った話ではなく誰しもが持っているはずのものだ。実際に上記に関してメンバーから学ぶことはとても多いのだから。リーダーとメンバーの関係が教える/教えられる関係になっているわけではない。確固たる価値観を持った行動と、他から学ばせてもらう謙虚さを持って日々を重ねていきたい。