告別式

今日は、Globisで経営戦略を共に学んだ方の告別式だった。
心不全であったと聞いた。歳は40位。クラスでのディスカッション、飲み会においてもいつも笑顔が絶えず、穏やかに濃いメンバーの話をキチンと聞いてから意見をくださる方だった。穏やかな語り口で発せられる意見の裏には、幅広い知識があり、練り上げられたロジックがあり、学ばせたいただいた点を数えればきりがないほどだ。
2月に久しぶりにお会いした席でも変わらず元気で、同年代のクラスメイトの方にマラソンに誘われ、(断りきれず?)笑顔でやろうやろうと言う話をされていた。
その後、仕事に関してご相談いただいた件もあり、メールのやり取りも何度かさせていただいていた。メールボックスには今もそのメールが残っている。見返せば、若輩である僕に対しても大変丁寧な口調でご相談をいただいていた。3月終わりの僕からのメールがやりとりの最後となっている。大変お忙しい日々を送られていたと聞いた。
本来であればご夫婦で、昨日から海外へ行かれている予定であったと奥様からの言葉にあった。それが朝起きてみると、と。何がおこったのか、と。ただ苦しまずに旅立つことができたのがせめてものことであると思いたい、と。とても気丈な立ち振る舞いであり、言葉であった。ただ、その姿に、そして言葉の端々にある、前向きに解釈したいという願望の域を越えない表現が、過去の行動を省みる表現が、本当の気持を伝えられていたのではないかと思っている。
心よりご冥福をお祈りする。
僕ができることは、この方とお会いする前後で生まれた変化、そしてこの方がおられた時とそうではないこれからの間の変化ー今日という日の経験も含め、を丁寧になぞり、これからの自分にいかしていくことであると思う。
僕は、自分の人生の中で、何をするにしても、気が付けば健康に生きることを前提に考えていた。全ては自分の選択と実行(リソースをどれだけ投下するか / 効率を上げるか)だと考えていた。
しかし現実はそうではない。
それは健康に生きられるかどうかという点にとどまらない。
全てが自分の選択と実行だという点に関してもいえることがある。
その自分というのは決して自分だけの力でそこに生き、考え、行動できているわけではないということだ。産み、育ててくれた親は勿論、共に育ってきた兄弟であり、支えあってきた仲間であり、導いてくださった先達であり・・・無数の方々の存在があって初めてその現実に存在し得ているということだ。
そして、そういった方々に支えられる過程で、自分の中に、生きることに対する責任も生まれるのだということだ。
今までそういった責任というのを自分に感じることはおそらくなかった。しかし今日、その責任というものを感じずにはおれなかった。
人によるのだと思う。しかし、上記のような責任を背負って生きるからこそ、思い通りには容易に行かない人生にあって、いかなる困難があろうとも己の光を失わず、そこに向かって道を拓き、歩み続けることができるのではないだろうかと思う。
僕はきっと大切なことを教わった。