目標はいい。それは行動に支えられてるのか?

昔からなのかもしれないが、人生にしてもキャリアにしても目標を立てる人は多い。長期目標をブレイクダウンし、年→四半期→月→週→日と、最終的に日々の目標へ落としていく。良いことだと思う。やり過ぎはいただけないが。例えば往々にして、この手を心がけている人は自分中心になりすぎる傾向があるとか。自分の目標は自分で達成できるものだ、最短距離を走らねばならない、自分の計画にないものはノイズであり無駄である、といったあたりの前提を置いているのだろう。
今回はここをいいたいわけではないので横に置く。
そうして目標を具体的にもつことは良いが、自分の口や文字ではなく、行動でそれを支えているのかということだ。目標を掲げて、それを明文化して眺めているだけでは何も変わらない。どれだけ他人に伝えていても、周りに自分がコミットすることを伝えていても変わらない。変わらないことを認識し反省しても意味が無い。自分に自信を失うことは殊更意味が無い(目標から遠ざかる / 諦めることはできるが)。
行動を変えることだ。
自分が使う時間配分を変えることだ。自分の行動を具体的に変えることだ、特に”これはやらない”という振る舞いを特定し、日々チェックすることだ。
目標達成の過程で自分が失う可能性のあるものを明確にすることだ(積極的に失う必要はない)。
自分と関係の薄い人からの信頼を失う、飲み会仲間から外れる、勉強会をやめる(その仲間から距離ができる)、小説の世界から遠ざかる、音楽の世界から遠ざかる、流行りに疎くなる等々。
勿論すべての場合で何かを失うことはない。ただハードルを高く設定する程、それが今自分が進んでいる軌道から外れる角度が大きいほどに失うものはでてくる。もしかしたら失わずに済むのかもしれない、ただ失う覚悟を決めていたほうが良い。何も失わずに自分の達成したい目標が常に達成できるという前提は、タフな場面で自分を苦しめる。それは重くのしかかる。
目標が達成できればなんであれ問題ない。
しかしそれができていないと感じたときに、行動が変えられないのなら、何かを失う覚悟ができないのなら、それは目標を達成することではなく、目標を掲げることで満たされているのだ。それがやりたいことだったのだ。目標と現状のGAPを感じて苦しむことや悩むことが成長だと勘違いしているのだ。
苦労の過程に成長はある。過程自体に楽しみを見出すことはとても大切だ。しかし、それは目標を達成したいと言いながら行動を変えずに同じところをぐるぐる回っていて良いということではない。

コメントを残す