最前線のリーダーシップ

最前線のリーダーシップ
マーティ・リンスキー (著), ロナルド・A・ハイフェッツ (著), 竹中 平蔵 (翻訳)
リーダーシップ関する本はいくつか読んできた。この本では特にリーダーシップという現象において、その中でリーダーとされた人が失敗・挫折する経験を多く踏まえて、そうならないために現場で、具体的にどうするべきかという観点で書かれている。
自分にとっての学びが何であったかを振り返る。
この本の中で言われているリーダーシップとは、集団もしくは社会におけるリーダーシップだ。この際に考えるポイントは2つあるといっていると解釈した。

1つは、集団・社会をリードする上では(特にリードするものが既存の集団・社会に与える変化・影響が大きい時は)彼らへの影響を忘れるな、彼らの理解を怠るな、彼らへの配慮を忘れるな、ということ。
1つは、自分をリードするもの・理由を手放すなということ。

既存の集団・社会に対する影響・変化が大きい程、彼らが経験する変化は大きくなる。そこには苦しみが伴う。変化した後の世界の方がどれだけ素晴らしいといわれたとしても。変化する前の今は自分たちが生きている現実であるのに対して、変化した先の話はそうではないからだ。得られるものが多かったとしてもその期待値が今の期待値を越えることは簡単ではない。
この影響を的確に把握しておかなくてはならない。例えば、自分がもたらそうとしている変化は、単に彼らが普段の行動、習慣を変えれば適応できるものだろうか。それとも、心・考え方まで変える必要があるものだろうか。
そんな彼らがリーダーシップをどう解釈し、どう反応するのか/しているのかを理解しなくてはならない。その時々に彼らが見せる側面だけを捉えるのではなく、そのように見える彼らに働いている動機をおさえなくてはならない。そのためには、自分と目の前にいる相手という関係だけでなくて、リーダーシップをとっている変化のステークホルダーの位置関係、行動の動機を踏まえる必要がある。俗に言うバルコニー席に上がるということだ。そのためには、自分と反対の方向を向いている人でも、彼/彼女を理解してその立場から物事を考えようとする”好奇心”が必要だ。
ここで印象的だった言葉は、

言葉の奥に潜む「歌」に耳を傾けなくてはならない

という一言だった。
それらを理解しても、思い通りにならない、結局分かり合えない、といって彼らと距離をとって変化を起こそうとしてもそれはうまくいかない。反対や抵抗が大きいほど自分が正しいということを証明したくなる気持ちも大きくなりがちだが、それは弱さの現れに他ならない。しかしそう思ってしまうのも人間というものなのかもしれない。ここで大切なことは4つある。
1つは、自分も変化を必要としている問題の一部であったことを受容れ、まず自らを変えること。1つは、反対派を遠ざけず、一方で自分のパートナーを見つけること。1つは変化に適応していくための土台を築き、変化のペースをコントロールすること。そして最後に、変化に必要な犠牲は辞さないことだ。
そして、上記の過程をリードしている自分をリードしているもの・理由を手放してはならない。一方でこれに関してはいくつか印象的だった言葉を抜粋する。

慢心しないためには、世界を救う孤独な英雄になるのをあきらめることだ。人々はあなたにその役割を担うように求めるかもしれないが、そそのかされてはいけない。英雄になることで彼らの成長機会を奪い、彼ら自身で物事を解決できなくなってしまうからだ。

大胆さと虚勢を混同してはいけない。自分が何をしているかわからなくても、果敢に新しい領域に挑むことはできる。自分の能力の限界を知りつつ、新しい領域を開拓しながら学ぶ姿勢を保つのである。

自己と役割と区別することは、賞賛を批判と区別することと同じくらい重要である。人々に褒められたことをすべてうのみにすると、あなたは役割のなかで自己を見失い、結果として個人的なアイデンティティや自己のイメージをゆがめることになりかねない。

攻撃の内容ではなく、攻撃に導対処するかで運命が決まるのだ。

「なぜリードするのか」という質問に対する答えは、単純且つ深遠である。人類の経験上、人生の意味の最も重要な源は、他人との絆を渇望することからきている。リーダーシップを発揮することは、人生において、友人や仲間に認められること、物質的な利益を得ること、身近な成功に喜ぶといった日常の利害を超えた意味を与える。なぜなら、実際にリーダーシップを発揮することによって、他人と意義ある形でつながることができるからである。その絆を表す言葉は愛である。

自分自身を覆うとき、人はそのことで何かを失う危険も同時に冒している。自らを守ることに精いっぱいになると、無邪気さ、好奇心、哀れみといった生きることの本質の多くを失ってしまうことがある。傷つくことを避けるには、無邪気さを皮肉に、好奇心を傲慢に、哀れみを冷淡さに変えることが簡単な方法だ。

懐かしい時間

13日の金曜日。
怒濤の一週間を終えて、東京に戻ってきたのが23時。そこから予約していた銀座のお店へ。予約は21時過ぎ頃からしていたのだけど結局合流できたのはこの時間。
この日は中学からの親友が出張で東京に来ていたので、大学時代のサークル仲間で東京にいるメンバーも久しぶりに集まって飲む。
ひとり、週末関東に旅行で来るからそれに乗じて合流しようと話していたこは、直前にキャンセル。なんでも週末旅行が来週末だったとのこと。社内では旅行へ行くといって堂々と有休をとり、同じチームのメンバーのお土産への期待を膨らませつつ休みに入った模様。リカバリーが大変そうだ。
僕が合流する頃にはひとりは既に帰ってしまっていた。もうひとりは20分程度で終電へ。出張できている残りの一人はうちへ泊まる予定だったので、そのまま飲み続ける。二人で飲むのはいったいいつぶりになるのだろうか。
その後カラオケへ。
気がつけばふたりで外が明るくなるまで飲んで歌っていた。ひたすらナツメロ。同学年だし中学から同じ環境にいたし、思い出も、それを自分の置くから引っ張り出すきっかけになる歌もだいたいかぶっている。
貴重な時間だった。あの歌この歌がはやった頃からもうこれだけの時間が過ぎているのか、と素直に驚きつつ、思い出話に花を咲かせて過ごした時間だった。

今日の朝日

今日は朝が早くて朝日が見られた。前に比べて時間も30分ほど遅かったので太陽の位置も違う。空の色も違うし雰囲気も違う。
にしてもまた雲ひとつない朝日。眠気も消えて元気になる。人によるとはいえ、やはり誰しもこのような朝日を浴びたら心身ともリフレッシュしてしまうのではないだろうか。
この季節、朝型の生活もいいかもしれない、なんてふと思った。
朝+夜型の今だけど。

変わらない

最近は特になかなかやることが多い。そして難易度も上がっている気がする。できる限りまず手をつける。特に初めてのものはアウトプットのイメージを固めても手を着けてみないことには必要な時間がわからないからだ。
手をつけずに寝かせてしまうと、手をつけることが億劫になってしまうし、どうも自分の中でタスクの鮮度が落ちてしまう。これまでの経験上、荒くても最初にざっとやってしまったほうが結果として筋が良いことが多い。
といいつつピークになると手をつけることさえもままならかったりするのだが。ここはやることの多さ・難しさに”自分の手綱は自分で握る”という感覚を渡さないことが重要になる。目の前のやることに目いっぱい自分を傾けることは勿論必要だが、その自分をコントロールする自分を失ってはいけない。そこを譲ってしまったらもうあとは”やれるだけやる”、”とにかくやる”の世界に行ってしまう。
そのテンションは結構面白かったりするのだが。”やってやろうじゃねーか”みたいな。
ただ、計画を持った大胆さと計画を持たないただの蛮勇は違う。あくまで前者。
と、忙しいながらこの時間に少し区切りがついたので休息をとる。
どんな状況に置かれても変わらないものもある。
おいしいものはおいしいのだ。

パワーゲーム

”これ、パワーゲームですよ。”
一緒にプロジェクトに入っているコンサルタントの方から出てきた言葉。置かれている状況の解釈、そして実際の彼の動き方から学ぶことは多い。
自分達のゴールだと考える場所への、新たな道と障壁が見えてきた。