粘り強さの問題か?

火曜日は今一緒にプロジェクトに入っているコンサルタントの方の地力というのだろうか、そのようなものを感じた。肝を据えて応じられる事象の幅の広さとでもいおうか。浮き足立たずに、目的と自分のペースを忘れずに物事に応じる。
目的達成におけるリスクが高い場合はコントロールできるリスク/できないリスクに切り分ける。コントロールできないものは気にしない。そちらは他の変数をいかにコントロールするかに集中する。コントロールできるものは回避するか軽減するか、対応する。
文字にすると当たり前に聞こえてしまうあたりが自分の文章力のなさかと思えてくるが、これはなかなかできるものではない。
(一般的に)背負う責任の大きさはそのままプレッシャーの大きさとして解釈してしまう。責任を負っているのにそれを全うする際に自分でコントロールできないリスクがあるというのは、より一層プレッシャーを大きくするものとして捉えてしまう。そのプレッシャーに過敏に反応して冷静な対処ができなくなる。タイミング・顕在化の可能性・オプションの存在に頭をめぐらせる前に、そのリスクを回避したいという気持ちに頭を支配されてしまう(人のほうが比較的多いのではないだろうか)。
彼にはこういった解釈・反応が一切見られないのだ。
彼を見ているとこの解釈・反応の裏には4つの要素が存在すると思われる。リスクの大きさをが把握できる / コントロール可否を判断できるというのは基本なので要素としない。

・自分の限界を理解している
・マネジメントの視点を持っている
・なんとかならなくてもなんとかしてきた?そんな修羅場をくぐっている
・基本的に楽観的

自分の限界を理解するとは、何らかの危機があったときに、それが自分が独力だったり今のリソースで切り抜けられるものなのかそうでないのかを見極められるということだ。
逆に自分の限界を理解していない人は、できると思ってギリギリまでやってみて後々になって倒れる、できないと思って越えられるはずのリスクも必死で回避しようとしてチームの士気を下げる、プロジェクトの信頼性・価値を下げる。
マネジメントの視点を持っているとは、目的を変えられる。クライアントの期待値のマネジメントにまで頭が及ぶ。長期的なゴールを見失わずにそのプロジェクトを成功裏にまとめて、クライアントが前に進めるためにどうするべきかという観点で今を見られるということだ。
マネジメントの視点を持たずメンバーの視点でいると、プロジェクトの他のタスクでカバーを利かせる、クライアントの期待値が不変に感じられ、結果としてできないと心で感じていても無理やりことにあたる。その精神状態で価値のあるアウトプットが生まれる可能性は低い。それはクライアントも期待していないのに。
ギリギリの修羅場をくぐっている。これは自分の限界を知る、マネジメントの必要性を身をもって知る大切な経験だろう。たまにこの果実を求めて自ら修羅場を望む人がいるが、本物の修羅場はそんな甘いものではない。後で気がつくものだろう。
基本的に楽観的。無責任とは違うのだが、どこかでわかっている。できないものはできない。わからないものはわからない。何があっても人生ここで終わりじゃないと。極限状態にあるときに、それを受容れて、笑い飛ばせるようななんともいえない余裕をもっている。
無責任とは違う。
こうして書いていると、自分もまだ限界じゃないなと思える。少なくともブログを書く余裕はあるのだし。
なんとかなる。ならなかったらそれが自分の限界。そのときは他のリソースをつかってどうにかするオプションを持っておきたい。それぞれがそう考えながらプロジェクト、その先にある長期的なクライアントの価値ために尽くす。誰かの限界は誰かでカバーする(できればカバーする側の存在でい続けたいな)
誰も一人でプロジェクトをやっているわけではない。自分ひとりのプロジェクトではない。きっとこれは甘えとは違う。
#今日は曇天、朝日がみえない・・・残念(^^;

久しぶりの朝日

今朝は気がつくと5時近くになっていた。
寝支度を済ませてベッドに横になってみるとブラインドからオレンジの光が差し込む。
その光を受けた部屋の中にいると穏やかな夕方と錯覚する。
外を見たくてベランダに出る。
ベランダからそれを見ても、空気の温度・におい、街の音くらいを除いてしまえば太陽の周りの空の雰囲気は夕方のようだった。
シャッターを切って、覚めかけた眠気をひきとめて、ベッドに横になった。

デザインの原形

デザインの原形
日本デザインコミッティー (著), 深澤 直人 (著), 佐藤 卓 (著), 原 研哉 (著)
タイトルのとおり。日本デザインコミッティーの面々が”原形”だと思われるデザインのプロダクトを集めている。本の中で”原形”というものの定義について以下のように書いている。

デザインの原形とは「類」や「種」の元を成すもので派生ではない。また原形とはオリジナリティとも少し違う。オリジナリティは独自であることが目的で、それは作者の個性や主観的意思の表れである。原形は作者が探し出した必然である。それが必然であることは、そのものが長い年月で活かされ、生活に溶け込んできたことで実証される。
(略)
原形の意味を知る者は、つくり出そうとするのではなく、生活の背景になり、人の行為にはまり込む必然を探し出そうとしている。原型となりうるデザインには時代の流れや一時の刺激に迎合されない強さと自由度がある。
(略)
むしろ原形たるデザインは一時の刺激や輝きを放つものたちの背景となって、それらをより際だたせる力がある。それは時代と共に移り変わる人の心理が回帰するよりどころである。

ということで、この本で紹介されるプロダクトには一切の無駄が省かれている。まさに”洗練された”という言葉で形容するにふさわしい。そしてその洗練したデザインを支える精緻な設計・高度な技術にところどころで触れられている。
素直にそれぞれのプロダクトが魅力的で、見ていて楽しい。
そして少し考えてみる。自分の原形ってなんだろうかと。
人に限らず色々な出会いがある。そこから広がる様々な経験がある。自分に色々な色でありパーツでありが加わっていく/失っていくのだと思うが、そんな時間を経る中でも自分の原形が何か、それは見失わずにいたいと思う。

カメラメンテナンス

土曜日は朝~夕方はオフィスで仕事。面白いように増える仕事。大きくなる責任(感?)。感じないと言えば嘘になる幾らかのプレッシャー(健全な範囲)。自分の地力・これまでの経験の咀嚼の浅さを感じながらも以前書いたとおり。やるだけ、伸びるだけ、足りないところは補い方を考える。
途中からマネージャも入って軽くディスカッション。その後は同じ会議室でお互い別の仕事。マネージャ、今日はその後家族サービスとのことでオフィスにご家族がやってくる。2年程前にホームパーティに招待いただいたことがあったのだけど、その頃赤ちゃんだった長男はすっかり子供。マネージャの奥さんには久しぶりの挨拶をして早々
”昔より貫禄つかれたんじゃないですか?”という一言をいただく。
・・・体重は当時と変わっていないと思うが・・・老けただろうか(^^;)
その後、カメラのメンテナンスへ。銀座にあるNikonのサロンへカメラを持参。保証の範囲内ということで無料で内側を掃除してもらう。初めて行ったのだけど面白かった。メンテナンスして下さる方も、1Fのショウケースのスタッフの方もとても優しい。カメラの話をすると実機に触れながら色々と教えてもらえる。
そしてメンテナンスの間に買い物。梅雨の時期(雨天時)用の靴をこれまでもっておらず、いくつか靴を少々傷めてしまったので雨用の靴を購入。後は気に入って普段使っているフレグランスがなくなったので同じものを購入。その他もろもろ久しぶりの買い物。
夜ご飯は以前一度来て気に入った豚しゃぶのお店。銀座店は3月オープンらしく基本的に社員を除く人は新しいバイトの方。コースや食材について簡単に説明してもらえるので興味のままに色々と質問する。中には事実と違う話が含まれていたりするのだけど、気がつく。
メッセージが事実として正しいかどうかよりも、問いかけに心から答えようとしているか / ”どうしよう”という不安云々よりも目の前の相手と向かい合おうという気持ちの方がよほど強く人の心を満たすのだと。
日常の仕事のにおいても重ねられる部分があるだろう(誤った情報でもいいという話ではなく)。
帰り、しばらく歩いているとライトアップされている花があった。花の名前はよく分かっていないが(ラベンダーだろうか)、その紫とそれを照らす鮮やかなブルーのライトに眼を奪われた。構図をみると自分の価値観のようなものが感じられる部分が端々にある。面白いものだと思う。