貢献ってなんだ?

移動後はホテルで仕事。
移動中に雨は上がっていたが、気がつくと徐々に雲は晴れ、うっすらと夕焼けが見えた。最近感じるのだが、仕事で求められる貢献の質が変わってきた。並行して進めるタスクの数も違ってこれば、そのタスクの重み(自分の責任範囲)も変わってきている。
大変に感じるときもあるが、楽しい。
一方で自分の力の至らなさを感じることもある。悔しいというよりはやるしかないし伸ばせばいい、自分らしいやり方を見つけられればいいという気持ちの方が強い。
”(成果を上げるために)求められている貢献に焦点をあわせろ”とはドラッガーの言葉だが、焦点をあわせること自体よりも、何が求められている貢献なのか、特にその変化を感じとることが難しいのではないだろうか。プロモーションや異動・転職等、次のポジションであり職務でありを明確に意識できる(しようと思える)イベントがあればそれをきっかけに感じとれると思うが、日常の中で徐々に変わり行く周りからの貢献というのはともすれば気づかずにそのままの自分でいてしまうように思う。
また、ここで大切になるのは主体的に自分の貢献を明示することだと思う。それができているからこそ変化に気づける(ある種仮説検証)。勿論そこには自分として関わる組織や集団に出したい貢献(自分の意義)というものがあるだろうし、そこに周りの期待とGAPがあるのなら、焦点をあわせるために関わる組織や集団を変える/遷る/つくるという選択肢も考えられるだろう。
自分の貢献、明確にできているだろうか?
それは周りからの期待と合致しているだろうか?
ここにGAPがあったとして、その原因を”周りがわかっていないから”と他責にして自分の変えられる部分/変えるべき部分をほったらかしていないだろうか?
これらを意識せずとも日々円滑に送ることができているとしたら、その居心地のよさは、本当にしたい自分の貢献へ向かう一歩を妨げてはいないだろうか?
ふと思った。

また移動

午前中にミーティングを1つやってまた移動。
僕の知っている東京ではなかなか見られない空が広がっていた。タクシーの窓の外に、電車の窓の外に。

ミーティングはうまくいったものの個人的には課題の残るものだった。
テーマに重なる、相手に重なる。
そんなコミュニケーションができるようになりたい。
準備と経験あるのみ。

写真がもっと好きになる。

写真がもっと好きになる。 菅原一剛の写真ワークショップ。
菅原 一剛 (著)
写真のノウハウはさておき、その道のプロフェッショナルの撮る写真であり、その考えでありに触れたい。そう考えていて見つけた一冊。
カメラやレンズの選び方や露出等の技術も簡単に触れられているが、写真・カメラを扱う腕ではなく扱う心について語られている。
カメラに限らず何にでも言えることだが、人間、自分の中で気持ちよりもノウハウが大きくなり始めると、それを駆使することに喜びを感じるようになる。気がつけば技術的に美しい写真を撮ることが目的化してしまい、何のための美しさか、技術的ではなく自分という存在として何を美しいとするか、といった心が薄れてしまう。
自分という世界に唯一の存在の追い求める貴い美しさを、被写体・アングル・フレーム・露出・絞り・シャッタースピードといった技術的な要素で分解して捉えてしまう。それらだけでは捉えきれない、大切な何かをなおざりにしてしまう。
腕を磨くことと、それによって表現する心を磨くことをトレードオフの関係にしてしまう。
そんな気がする。
なのでまずは、自分の心に何かしらひっかかったものを、自分の好きなように写す。自分の感性に任せてシャッターをきっていきたい。そして今回手にしたようなプロフェッショナルが過去に残してきた写真や考え方・感じ方に触れていきたいと思う。
なんだかんだいって、自分の心の底から楽しければ良いのだ、と思っている(^^)
#仕事にも同じことが言えると思っている。僕は、Clientであり自分でありの大切な何かを、構造立てて考える過程でばらばらにしてしまってはいないだろうか、取りこぼしてしまってはいないだろうか。
印象に残った言葉をいくつか抜粋したい。

それが庭先に咲く花だとしても、ただ何となく撮られた花の写真と、話かけるように撮られた花の写真とでは、まったく違う写真が出来上がると思うのです。

その人ならではの”景色のようなもの”を見つけることができたなら、いい写真が出来上がるのはもちろんのこと、今まで以上に、その人のことが大切に思えてくるはずです。

”思い”というものは写真に現れるし、あなたが被写体を見る気持ちが、あなたらしい写真をつくります。でも、そんな気分になれない時は、光の色を意識してください。すると、気分さえも驚くほどに変わることがあります。光の色を感じることで、ものの見え方は大きく変わってくるのです。

光の中に、”目に見える光”と”目に見えない光”の両方があることを、少し意識してください。

「一枚の写真の中には、とても大きなつながりが写っている」

僕は、ある種のコンセプトを掲げて写真を撮る感じが嫌いです。それは、写真は”時間”というものに大きく関係していますが、コンセプトなんかでは太刀打ちできないほど、とても大きな流れの中に存在しているからです。

ふとした瞬間を

今日は移動の多い一日。
あわただしくいくつかの場所を往来する中で、タクシーから降りた時に一瞬時間をとめてくれたというか、時間の流れを教えてくれたというか、そんな風景があった。
ほんの数秒、その場に立ち止まり、携帯のカメラへその風景をおさめる。
今日の最後の移動。今から新幹線終電で西へ向かいます(^^;)

今週は日曜日の昼に移動。やはり必要ということで今回はカメラを持つ。
日曜で空いていたので景色が良いと思われる側の席をとり、本を読みながら離陸を待つ。今回は窓の汚れもそれほど目立たず、天気も良く、吸い込まれたくなるような風景が広がっていた。ボーっと見ているだけでは海と空の境界を見失ってしまいそうな青だった。雲や陸、海の光の反射があるからわかるものの、それらがなくその青のグラデーションだけが広がっていたら、きっと僕にはどこからが海でどこからが空なのかわからなかったのではないだろうか。
海・山・川といった自然のそばで生活していた、そして今東京で生活している僕は、たまに実家に帰ったり自然のそばにいったときに改めて自分の心身が大きく”のび”をすることを感じる。普段の生活でちぢこまっているという自覚はないのに。
それと同じで、こうして果てない空や海を見ていてもまた、自分の心身のどこかが解れるような気がする。
#よくよくみるとホコリが映りこんでる。そろそろ掃除の時期かな・・・