叱るって難しいけど大切なことだなあと感じる。
叱るのを難しく感じるのは、前提として正とするものが本当にそうだと言えるのか確信を持つのが難しく、じゃあそれが正しいとしてそれが自分もできていなかったら叱ることなんてできないんじゃないかという自己への疑いを払拭するのが難しく、そもそもその相手の振る舞いにそこまで介入していいものなのかという距離を測るのが難しいからじゃないかと思う。
逆に言うと、叱っている相手というのは、叱られている人間にとって、自分の中に確信できるものをもっていて、それに重なることができていて、叱られている自分との距離を近いものだと考えてくれているのだと映る。
勿論シチュエーションと内容、叱る人間に対する納得感があってこその話だと思うのだけど。
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こんばんはー。
本当に叱るのは難しいですね。
私も勤務時代、ずいぶん迷いました。理由はsagadさんがおっしゃってるのと全く同じです。
叱ら(れ)なければならないケースというのは、往々にしてその結果そのものよりもプロセスに問題があることが多く(例えば叱られる側の気持ちのあり方だったりとか)、叱る側の主観に左右されがちだというのが大きいからかな。
「常識」という前提も、難しいもんだと感じます。自信満々に主張されると、違和感を感じても反論しずらいですしね…
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しょうちゃんさん、こんばんは(^^)
確かに叱る理由が相手のプロセス(気持ちのあり方等)だったりするとなおさら難しいですね。一方で、それを迷うことなく、言葉を浮かせることなくしっかりと叱れる人を見る機会がありました。
きっと、そのスタンスだったり表現だったりに違和感を感じていた人もいたのだと思います。それでもそれをきちんと伝えられない理由の一部には自分のどこかが叱っている相手に共感しているからというのもあるのだと思います(これは少し粗い考え方かもしれません)。
叱るにしても叱られるにしても、その先にあるものを見失わずにいたいと思います。
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結局は愛情のあるコミュニケーションの一つかな、などと思います。
叱った後で、なんでそんなことしたん?と聞いてしまいたくなるような、そんな感じでしょうか。
自分はこれが正しいと思って叱ったけれど、相手には相手なりの考えがあったんだろうな、と。
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hirosan551さん、コメントありがとうございます。確かに叱るというのは愛情のコミュニケーションの1つだと思いますね。怒るとの違いがそこにある気がしています。自分の感情のアウトプットが目的の”怒る”、相手を正すために感情をただアウトプットするのではなく考えさせる/正しい方向を示すことが目的の”叱る”といったところでしょうか。