みえているか

仕事上、業界にしても企業にしてもの将来に見通しを立てることが必要になる。情報が限られていることも多い。そんなときにふととまってしまうことがある。あれ、みえないぞと。思考が前に進まないぞと。
抽象的な論点であり答えるために必要なアプローチであり考えることは、誤解を恐れずに言えばそんなに難しいことではない。しかし、その中身がなんであるのか。具体的にその企業だからこその論点は何か?その企業だからこその打ち手(その時点での答え)は何か?となるとすらすらと出てくるものではないし、ロジックツリーにデータをはめこんだら出てくるものでもない。
その見通しであり仮の答えでありが”面白い”ものであることって結構重要だ。データに裏付けられた見通しであっても、それが相手にとって既知・もしくは前提として置いてしまえるものであれば検証する価値がない(小さい)。対象を変えるのか、いやいやそのとおりだけどそれがどこにどれだけの影響を及ぼすものなのか、という視座を変えるのか。考えるべき点はいくつかある。
先日のパートナーのパフォーマンスにしてもそうだが、周りに見えない”何か”が見えているのだと思う。それに関して、おそらく①根底にある信念・価値観、②意図をめぐらせる幅と深さ、③自身の中に蓄積された知見・経験則の量・質、④自分の外からのインプットを感知し、受け止め、つなぎ、解釈するレセプターの多さ、ネットワークの広さ・密度・・・と分解をしてみても重なることはできないのだと思う(①、②を丁寧に理解して、自分を見つめなおすことには価値があると思う)。
大切なのはそれらに、できるだけ生で触れて、学び、自分らしくやってみる、その結果から学ぶ、というサイクルをまわし続けることに他ならないだろう。

圧倒的

パートナーにさらりと見せられる圧倒的なパフォーマンス。方法論云々のレベルではない、一般論に抽象化してしまっては伝わらない、アウトプットだけなぞってみても触れられない、その人に深く根付いた力を目の当たりにする。内容のシャープさだけでなく、その見せ方のうまさもあるのだけど、その切れ味の良さには清々しささえ覚える。
自分に足りない部分を疑う余地なく自覚させられることが嬉しい。その内容、自分の捉え方が昔と異なっていることが嬉しい。
そしてまだまだいけると思えてくるのだ。

ベロニカは死ぬことにした

ベロニカは死ぬことにした
パウロ コエーリョ (著), Paulo Coelho (原著), 江口 研一 (翻訳)
以前読んだ『アルケミスト』の著者の作品というので手にした。他にもいくつかある著作の中でこれを手にしたのは人の内側について濃く書かれていそうな気がしたからだったと思う。
普通とは何か?普通ではない(狂っている)とは何か?について考えさせられる一冊。
精神に異常をきたしているものと、通常であろう人間に判断されて精神病院での生活をしている人間個々の心の機微、交流による変化の過程が描かれている。
事象の捉え方や捉えた事象に対して選択する反応が”普通”と異なっていたり。その背景には自分の精神のキャパシティが極度に小さくなっていたりインプットを拾うアンテナの感度が極度に高くなっていたり。
各人の普通であった?過去から現在に至るまでの流れを追っていくうちに何が異常で何が正常なのかというのが曖昧になっていくように感じる。そもそもデジタルに判断できるものではないのだろうけど。
そんな彼らを治す側の立場の意図にも触れることができる。新たな治療法を見出すための被検体として捉える視点、ひとりの人間個人として捉える視点。両者のバランスが見事に取れているシーンを見ると少し”異常”だと感じる部分もあるし、一方でバランスをとりかねているシーンを見れば、その医者を”通常”だと感じる部分もある。
その判断がいかに主観的であり、またその主観が自分の過去であり今の環境でありのコンテクストにおける価値観に影響を受けているのかを感じることができる。

容疑者xの献身 -movie

週末容疑者xの献身の映画を見る。
先日小説を読んでいたときに、頭の中ではこのcastでのストーリーをイメージしていたので、自分の中にあるストーリーをなぞるように映画を見た。
小説との違いを考えると、湯川は小説より映画の方がよりキャラがたっている(高度に合理的、ドライ。一方でそのたち方が時折表現される感情面での葛藤を際立たせる)。石神は小説よりキャラがまるくなっている(ビジュアルのギャップ、人間としての表現力のギャップ。にしても堤真一の表現力であり、演出・脚本の仕上がりは素晴らしいと思うのだけど)。
最後のシーンは原作に描かれた内容をみてみたかったなという感もある。映画での描き方には、それならではの対象の絞込みであり、素晴らしい表現がなされているのだけど。
やはり途中目頭が熱くなるシーンもあった。
エンドロールでは、小説では読後心が静かになったのだけど、彼らのこれからに少し思いを馳せた。

いまいちど基本に

mtgの目的・ゴール明確にする。
mtgに臨む時にはその目的に対する自分の答えを持っておく。
mtgの場では率直に、そして建設的に。
mtgのところどころに意味ある”余白”をつくる。
mtg後のアクションは期限と責任者を明確に。
全て基本。なのだけど最近の自分を振り返ればできていない部分がいくつかある。
mtgの目的は明確にしているけど、ゴールまで明確にしきれていないんじゃないか?
自分なりの答えに辿り着けず、これが仮の答えだと主張できるもの・裏づけを持たずになんとなくの過去の経験や集めた情報だけを持って臨んでいるmtgがあるんじゃないのか?
mtgのアウトプットをチームで最高のものにするということと、自分の率直さを控えることを混同していないか?各人が快適にディスカッションできる環境を意識して自分がとがること、場を壊すことを恐れていないか?
mtgの目的によってはAgendaの外で重要なことを知れたり気づけたりすることもある。それを意識した”余白”をつくるのはいいが、そこに甘えすぎていなかったか?mtgの効率を上げる努力を怠ってはいなかったか?
アクションを明確にする、期日と責任者を明確にするのはいいがそれは本当にコミットできるものだったか?それはちゃんと次のmtgのスタートを加速できるだけのものとして仕上げられていたのか?
タスクの量も質も変わる。しかもそれは丁寧に誰かが教えてくれるわけではない。自分自身で気づいて、認識を改めて、これまでとは異なる貢献にピントを合わせて、自分の中の一部を再構築していく必要がある。
そんな中であっても、流されず、基本はちゃんとおさえていきたい。