容疑者xの献身

容疑者Xの献身
東野 圭吾 (著)
映画を見る前に原作を読みたくて手にした。涙こそ流れはしなかったが、読んだ後、心の中がとても静かになる一冊だった。人としてしていいこと悪いことというのは、やはりあるのだと思う。それでも一貫した、深い献身に敬意を抱いた。
xは、愛という感情に溺れて真に相手のことを考えることを放棄するでもなく、現実的な思考で自分の感情を自分に対して覆い隠してしまうでもなく、高い次元で感情と思考が統合されている、極めて素直に合理的な人間だったのだと感じた。
勿論常識的に考えれば欠けていた何かがあったのかもしれない。感情をそのままに受け容れすぎたのかもしれない。思考に制約が無さ過ぎたのかもしれない。それでも、そうなることができるほどの何かを手にしたxには、人としての美しさを感じるし、敬意を抱く。
そのあまりに人間らしい生きる意義を見つけ、迷い無く徹底して尽くせる真っ直ぐな心と、それができる卓越した頭脳を持ったさまに対して、かな。
映画、見に行きたい。

経験こそが

新しい経験をする / 事態に直面すると、自分の中に新しい感覚が生まれる。その感覚が新しい行動だったり解釈だったりを必要とする。その積み重ねの結果自分の習慣が変わる。その変わった習慣は自分のアウトプットを変える。そしてその変わったアウトプットが自分に新たな経験 / 事態をもたらしてくれる。そしてまた自分の中に新しい感覚が生まれる。
ここでいう経験というのが具体的であればあるほど良いと思う(結果によって取り返しがつかなくなるものは除くが)。自分の心に深く刺さる経験、自分を根底から揺るがすような経験であればなお良いと思う。その分だけ自分の中に強烈な感覚が生まれる、新しい行動・解釈への強烈な衝動となる。それを習慣に変える強力なモチベーションになる。
最近を振り返ってみると新しい経験をいくつかしていることに気づく(って以前にも言っている気がするが気にしない)。そしてその経験によって自分の行動が少し変わっていることに気づく。
なので、ああ、経験こそが自分を変えていくんだなと感じたのだ。
強烈な経験、という言葉を過去のエントリーで使ったことがある気がしたので検索してみた。
http://www.exblog.jp/search/?q=強烈な経験&t=0&blogid=e0019200
3件ヒットした。
いずれのエントリーにも今回書いた内容は部分的に重なるように感じている。3つともここ2年以内のエントリーだ。
今明確にわかっているのは、強烈な経験は、強烈な経験が必要だと言って得られるものではないということだ。もっと言えば望んで手に入るものではないということだ。自分が望める範囲にない、視界に入っていないからこそ、強烈な経験なのだ。自分の想定の範囲内に強烈な経験はない。
少し乱暴な言い方だが、面白そうだと感じたらまず経験してみる。後は覚悟を決めてやり遂げる。
強烈な経験は、おそらくその覚悟の先にある。
#ってなんでこんな話になったんだろか