ベロニカは死ぬことにした

ベロニカは死ぬことにした
パウロ コエーリョ (著), Paulo Coelho (原著), 江口 研一 (翻訳)
以前読んだ『アルケミスト』の著者の作品というので手にした。他にもいくつかある著作の中でこれを手にしたのは人の内側について濃く書かれていそうな気がしたからだったと思う。
普通とは何か?普通ではない(狂っている)とは何か?について考えさせられる一冊。
精神に異常をきたしているものと、通常であろう人間に判断されて精神病院での生活をしている人間個々の心の機微、交流による変化の過程が描かれている。
事象の捉え方や捉えた事象に対して選択する反応が”普通”と異なっていたり。その背景には自分の精神のキャパシティが極度に小さくなっていたりインプットを拾うアンテナの感度が極度に高くなっていたり。
各人の普通であった?過去から現在に至るまでの流れを追っていくうちに何が異常で何が正常なのかというのが曖昧になっていくように感じる。そもそもデジタルに判断できるものではないのだろうけど。
そんな彼らを治す側の立場の意図にも触れることができる。新たな治療法を見出すための被検体として捉える視点、ひとりの人間個人として捉える視点。両者のバランスが見事に取れているシーンを見ると少し”異常”だと感じる部分もあるし、一方でバランスをとりかねているシーンを見れば、その医者を”通常”だと感じる部分もある。
その判断がいかに主観的であり、またその主観が自分の過去であり今の環境でありのコンテクストにおける価値観に影響を受けているのかを感じることができる。

容疑者xの献身 -movie

週末容疑者xの献身の映画を見る。
先日小説を読んでいたときに、頭の中ではこのcastでのストーリーをイメージしていたので、自分の中にあるストーリーをなぞるように映画を見た。
小説との違いを考えると、湯川は小説より映画の方がよりキャラがたっている(高度に合理的、ドライ。一方でそのたち方が時折表現される感情面での葛藤を際立たせる)。石神は小説よりキャラがまるくなっている(ビジュアルのギャップ、人間としての表現力のギャップ。にしても堤真一の表現力であり、演出・脚本の仕上がりは素晴らしいと思うのだけど)。
最後のシーンは原作に描かれた内容をみてみたかったなという感もある。映画での描き方には、それならではの対象の絞込みであり、素晴らしい表現がなされているのだけど。
やはり途中目頭が熱くなるシーンもあった。
エンドロールでは、小説では読後心が静かになったのだけど、彼らのこれからに少し思いを馳せた。