そのままで

今日は午前中は勉強会、昼食を久しぶりにmixiを通じて知り合った(よくよく考えると知り合って2年半くらいたつのかな)ベンチャーを立ち上げられた方とご一緒する。そして帰ってからジムへ行き、その後食事を済ませて仕事に手をつけている。
勉強会も昼食のときも当たり前ながら色々なことを話す。勉強しているテーマについて、今のプロジェクトの概要について、ベンチャーのビジネスについて。そんなときに自分の中で、”いいこと言わないと”っていう暗黙のプレッシャーを自分に課していることに気づく。そしてそういう時は概して”いいこと”を言っていない。
考えれば当たり前なのだけど2つのことがある。いいことを言わないとって考えた時点でこれら2つは自分の中でどっかにいってしまっている。

・言う前にまず聴く
・いいこと言おうとしなくていいから考えたことを整理して伝える

自分が”いい”と思うことよりも相手が何を伝えているのかを理解しようとすることの方がずっと大切だ。そして。いいことなんていうのは言おうとしてでるもんじゃない。考えたことを伝わり易い形にして伝えればそれでいい(考えて会話の流れを崩してしまうよりはよほど良い)。
そうすれば話は前に進むし、キャッチボールができる、相手もそれを受けて考えられるのだから。その過程で話している間に”いいこと”が生まれればそれでいいのだから。
色々とはしょるけど、自分っていうのが人にどう見られたいのか/見られているのかっていうのを結構意識してることを実感。そして目の前の相手よりも自分と自分の理想との関係を意識していることを実感。
前もBlogに書いた気がするのだけど、自分を見る(囚われる)のと、自分に囚われずに自由(適当)にできるのは繰り返し訪れるものだと思う(螺旋的に)。
せっかく自分に目がいっているこの時期、これまで自覚できていなかった自分を自覚できるようになっていきたい。意識しすぎて身動きとりにくくなるのはできるだけ避けたいけど。
この手のことを考えるとバガボンドを思い出す(^^)

言葉で/心で

言葉を介して伝えられるもの / 伝えられないものがある。
メラビアンの法則によれば、人のメッセージを伝える手段の中で言葉が担う割合は7%に過ぎない(話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合だ)。
視点を変えると、ドラッガーはネクスト・ソサエティの中でこのようなことを言っていた。”その変化が本物かどうかを見極めるためにはその人の動きを見ればいい。言うことがだけが変わっているならそれはまだ本当の変化ではない。行動が変わり始めたとき、それが本当の変化の訪れだ”(正確には覚えていないがこのようなメッセージだったと思う)。
その人の本音は言葉よりも行動が語るのだと。
周りからも時々言われるのだけど、僕は自分の心の持ちようだったり頭の中身だったりを全部言葉で表現しようとする。自分の気持ちや考えをそのままのかたちで相手に伝えたい / 言葉ひとつ違うだけですれ違ってしまうようなことを避けたいからだ(職業上自然とこだわってしまうというのもあるかも)。
でも自分の頭の中身はともかく、自分の心の中身ををどれだけ言葉にできるだろう。言葉にできたとして、その言葉はどれだけ心の中身を相手に伝えてくれるのだろう。
うまく言葉に直すことができなくて、それに困惑している見た目、困惑からくる不自然な語り口の方がよほど雄弁にそのときの心のありようを伝えているのではないだろうか。そしてそれらが伝えてくれる心は、自分が本来伝えたいと思っていた心ではなく、それを言葉に直すことを目的化し、それが達成できていないが故の困惑であり焦りでありなのではないだろうか。
僕はどこかで頭をつかわないといけない、頭で全てを把握しないといけない、そうやって表現しないと相手に自分の心は伝えられない、と思い込んでいるのではないだろうか。そんなに頭も良くないのに(そういう問題じゃないな)。
曖昧な表現になってしまうけど、もっと、頭を介さない心のやりとりを心がけていきたい。頭で整理されて出てくる言葉よりも、整理されていなくても心が自分から出させる言葉の方がよほどうまく自分の心を表現してくれるのだと思うから。その言葉を発している口調や声色も、そうこうしている自分の動きも。
心に頼れる自分でありたい。頼れる心を持った自分でありたい。
と書いて行動が変わり始めたら、自分が本当に変われてると言えるんだろう。