土曜日、PCの移行作業をしていると母親から電話があった。折り返してみると、元気でやっているのか?最近も忙しいのか?といった月並みな会話を少し交わす。そして、
母: ”お父さんと今からいっていい?”
と。
?
??
D: ”いいよー”
と返事をする。(うちの親の性格を考えるとなおさら)突然・唐突だったので驚き、面白かったのだけど、ちょうど土曜日は自分のスケジュールしかいれておらず調整可能だったのでOK。その話をしてから荷づくりをはじめたようだった。
それから経つこと2-3時間。親がつく時間まではPCの移行をしていようと思っていると途中で父からメールがくる。
父: ”品川で降りようと思うんだけどこれるか?水族館に行こうかと思って。”
7月の三連休に姉が来たときも品川の水族館へはいっていたのだけど、まあいいかと思いOKして品川へ向かう。
合流してからはいろいろと会話をしながら水族館へ。水槽の外からサメやエイに手を振っては喜んでいる母親を横に見つつぼーっとする。せっかくだしカメラ持ってきたらよかったなあと思いながら。父親はマイペースで自分の見たいものをふらりふらりと眺めている。
携帯のカメラで撮ってみたのだけどうまくとれない。携帯にカメラの機能は求めていなかったのだけどもう少しうまくとれるようにしたいな。この携帯、カメラの機能はあまりよくないなと気づく。
その後移動して、僕が普段いるオフィスを簡単に案内してから食事へ。思い切り食べて親を駅のホームまで送り帰途についた。
食事はコースにしたのでゆっくりと食べながら話ができた。こうしてゆっくりと両親と話をする機会は、振り返ってみるとほとんどなかったことに気づく。仕事の話や家庭の話などとりとめもなく話す。機会がなかったこともあり変に新鮮さを感じてみたりしながら。
親子だなということをつくづく感じた。根元にある考え方が同じだったから。
最近自分について考える時間が増えているのだけど(若干*百足状態)、そうして気づいた自分の考え方が親と重なる部分が多かったのだ。直接言葉で教えられた覚えはないし、親からそういった点を吸収しようと意図した覚えもないのだけど。自分のどんな部分もだいたい父親・母親のどこかに重なるんだなあと。
言葉にできないもの/意図できないものなんていくらでもある。
親孝行したいなと思った。今は彼らがされたい孝行<自分がしたい孝行なのだと思うけど、重ならない部分があればどちらも選んでいきたいし、相容れない部分があるなら彼らがされたい孝行を選んでいきたい。
*百足:自分であり続けるために 流されず、いまを生き切る50のメッセージ(田坂広志(著))より引用。
ムカデの自意識
「百足」と書いて「ムカデ」と読む。
この不思議な虫の、苦難の物語です。
ある暑い夏の日、 ムカデが一生懸命に歩いていました。
すると、通りかかったアリが言いました。
ムカデさん、凄いですね。
百本もの足を、 絡み合うこともなく、乱れることもなく、
整然と動かして歩くなんて、さすがですね。
その誉め言葉を聞いて、ムカデは、ふと考えてしまいました。
なぜ、自分は、これほどうまく百本の足を動かせるのだろうか。
アリさんの言うとおり、絡み合うこともなく、乱れることもなく、
なぜ、整然と動かして歩くことができるのだろうか。
そう頭の中で考え始めた瞬間に、ムカデは、一歩も動けなくなってしまいました。
先ほどまで、何の苦もなく無意識に動かしていた足を、
一歩も動かすことができなくなってしまったのです。
このムカデの姿は、我々の姿に、似ています。
自意識の病。
その病によって、我々は、いつも、力を発揮できなくなってしまうのです。