アラサーはもう一度夢を見直すとき

ふと頭をよぎったことを文字にしておこうかと。
アラサー、特に30を越えたあたりというのは多くの社会人にとってもう一度自分の夢を見直すときなのではないかと思う。自分の周りにいる人をサンプルにして考えるに、この時期のおそらく一般的な社会人は、

・自分の裁量がそれなりに広がって仕事が楽しくなってきていて、

・特に古くから自分を知ってくれている上司であり部下でありから信頼をよせられるようになり、

・部下を持つ経験を通じて、いい意味で自分のかどがとれて人として成熟しはじめており、

・所属する組織の中で自分が好きにできる領域というか分野というかが多少なりとも築けている

そんな一方で、

・1回もしくは複数回にわたる自身の異動もしくは上司の異動も経験していて、

・結果として上記で築いてきた一部の仲間との信頼関係や自分の得意分野を上手く噛みあわせることができずに歯がゆい思いをしたり、

・とはいえ少々成熟した自分は新人の頃のようになりふりかまわずぶつかり合うこともできず、どうすれば上手くやっていけるのかななんて悩み、

・一方で未だ残っている未成熟な部分がもろもろを疎ましく思うことを自分で諌めてみたり愚痴ってみたり、

・そんなこんな自分の中で折り合いを付けてるうちに、新しいメンバーで上司とうまくやっている人にうまく立ちまわられて余計やりにくくなって悶々としたり。それが年下だったり後輩だったり、自分としては全く認められない人だったりしたりして。

誰だこれ?って話なんだけど、自分の周りを見てるとアラサーに該当する人は結構な割合で上記の何かしらを経験している人が多い。勿論こうして書いている僕も一部はしっかり当てはまるところがあったりする。

で、そんなこんなを抱えている自分であり知人でありを見ていて気づいたのが、

”そもそも何がしたいんだったっけ?”

という話。

おそらく一般的には、社会人の多くは若かりし頃は組織の中に自分でないと立てないポジションがないので、自分の夢に向かって素直に走っていたと思う。夢があるのにそこに向かわない理由がわからないし、ましてや立ち止まる理由も諦める理由も見当たらないわけだし。

それがアラサーになり、自分でないと立てないポジションができはじめ、現実に充実感を覚え、その組織で活躍していくうちに、段々と自分の夢が薄まっていく。

当初描いていた自己実現への欲求は、気がつけばその組織の中で活躍することで得られる周りからの賞賛であり、早期のプロモーションであり、自分が裁量を持ってできる仕事の範囲の拡大によって、周りに承認されることによって満たされていると感じてしまいはじめる。

周りの高まる期待に応えることがチャレンジだし(決して簡単にできるものではない。ましてや継続的に)、それができることが自分としても嬉しいし、組織としても嬉しいし。利害が一致して走るうちにだんだん自分が当初描いていた夢とは違う方向に走って行き始める。

で、変化によって立ち止まる。

自分が新しい環境に行くのかもしれないし、信頼の厚かった上司が異動して、これまでまったく付き合いのなかった新しい人が上司になるのかもしれない。信頼関係を上手く築けずに自分の得意分野が認められなくなってしまうかもしれないし、そもそも会社の戦略の変更によって重点投資領域が変わり、自分の得意分野の価値が突然下がるかもしれない。いくつかある。

ただ結果として起こるには、自己実現欲求を隠していた承認欲求を満たす要素がなくなり、これまで満たされ続けることで知らぬ間に大きくなっていた承認欲求さえ満たされなくなるということだ。

で、どうしたものかとなるわけだ。

このとき往々にして選択されがちなのが、承認欲求を満たそうとすることだ。上司との信頼関係をなんとか築こうとする、新しい仲間との関係を深めようとする、新しい分野について学習し、自分の幅を広げようとする。自分の過去の経験等を整理し、自分が何が出来る人間なのか、自分の価値を分かりやすくする等々。

上記は良いことだと思う。プラスに考えれば期せずしてuncomfortable zoneに身を置けたわけだから新たな成長機会として捉えて活用するのはとても良いことだと思うし、新しいteamとしてperformanceを上げるためにも必要な取組みだろう。

ただ、ここで言いたいのは上記だけに集中して良いのか、違うのではないかということだ。

上記は承認欲求を満たす手段だ。アラサーになる過程で埋まってしまった、承認されることにすり替えられて満たすことの出来ていなかった自己実現の欲求を掘り起こしもしないし満たしもしない。再び新たに自分の得意領域を築き、自分の幅を広げ、承認欲求を満たし、そしてまた次の変化にぶつかり同様にしていくのか。勿論そのたびに自分の幅は広がるし、変化に対応するの力も磨かれるだろう。

その会社・組織での仕事が100%自己実現に重なっていればこれでいいのだ。しかし本当にそうだっただろうか。心のそこからこの会社での仕事こそが自分が一生のうちの多くの時間を投資してなすべき仕事なのだと胸を張れるだろうか。

なんとなーく、そこまで人生であり仕事でありにアツくこだわっていない、いや本当はこだわりたいはずなのにそれなりにオトナとして洗練されてきた?自分がそれをさせないというのかな、というのがアラサーなのではと僕は感じている。

というようなアラサーにとって上で書いてきたありがちなシチュエーションは、再び自分が何をしたかったのか、自分の夢の実現へ自分をadjustする機会としても活用するべきだと思うのだ。

自分の人生の責任をとれるのは自分だけなんていうのはわかってる。ひとりよがりのやる気だけでは世の中うまく動かないなんてこともわかってる、でもそんなそのやる気なくして人を動かすこともできないなんてことも頭のどこかでわかってる。自分に未熟なところがあるなんてことはわかってるだけどそんなところだけじゃない、これまで築きあげてきた、結果を出してきた自分がいることだってわかってる。

目の前の環境に自己を対応させることも大事だおともう。ただその環境が本当に自分のいたい環境なのか、今悩んでいることの先に本当に自分のやりたかったことはあるのか。逆に自分の本当にやりたいことから逆算したときに、今悩んでいることは悩むべきことなのか。

もう一度見直すときなのだと思う。

人を助けるということ・支えるということ

苦しい状況に立つことは自分も含めて多くの人が経験することだと思う。そんな状況に自分が立つと、その状況に立った人にとって何が助けるということであり、何が支えるということであるのかがとてもよくわかる。その逆も然り。
助け方・支え方としては大きく3つあると考えている。
1. 軽いトーンで方向を明確にする。
苦しい状況にたっときに視野が狭くなる、もしくはみえているのに認識できない、思考に反映されない状態になるということはよくある。そんな時に、こうなってればいいんだよね?この問いに答えられたらいいんだよね?こんな感じのことをすればいいんじゃないかな?と軽く質問をしてみたり会話してみたりしながら方向を明確にしていくことは相手を助ける。方向が大筋でもみえれば、そこに辿り着くために必要な構造が見える、構造が見えれば、必要な情報やらが見える。だいたい方向性で悩んでいるケースは、情報は大量に調べて抱えていたりするケースが多いのでこの後はすごいスピードで進められたりする(結果足りないものが見えて次の山にぶつかることもあるが)。
逆に、要するにどうなってればいいと思ってるの?ゴールは?といった相手を叩くようなコミュニケーションは相手を助けない。それが明確にできていれば、筋道を立てられていれば、少なくともどうしていいの過途方にくれるような状況には陥っていないのだ。自分でわからないと自覚していることを問い詰められるのは人間とても苦しい。
2. 軽いステップで一緒に歩く。
方向は分かっていても、その道程が険しすぎてもしくはゴールが遠すぎて”どうしたものか?”と立ち止まってしまう、やることはわかってるがどうにも手につかない、という状況に陥ることはおそらく誰しもあるのではないかと思う。そんな時に、まずこんな感じでやってみよっか?あ、ここはこんな感じじゃない?じゃあちょっとオレそのイメージ書いてみるよ、といった軽いノリで一緒に歩くことは相手を助ける。いざやりちょっとでもはじめられれば、手につかないという状況は往々にして解消されるのだ。
ただここで、相手の考えを無視して自分の意見を押し通すと逆効果だ。相手が迷子になってしまう可能性が高いし、押し通された意見も加味した結果より一層やらなくてはならないことだけがみえてしまって、より一層一歩が踏み出せなくなる。勿論必要に応じて軌道修正なのだが、相手頭の中にあるゴールや筋道に素直に従って、軽いノリでちょっと一緒に手を動かす。一緒に歩き始める。それが相手を助けることになる。
3. 相手の話をすべて聴き、軽く肯定的な言葉を返し続ける。
ゴールは明確なはずだ、筋道も立ててやっているはずだ。だからこれでいいはずだ。ただ、ただなんかこれでいいのだろうか自信がないような気がする。という状況には、ストレッチをしている人間は少なからず陥ることがあるとこれまでの経験から考えている。後は、平たく言うとてんぱってしまっているパターン。これらの場合はクリティカルに議論を展開することなく、まずはひたすら、なるほどなあ、うんうん、あーそうだよねっ、と全て受け入れるスタンス、肯定的なスタンスで話を聴く。その過程で、相手は自分の考えに自信を持つことができるし、てんぱってこんがらがっていた糸はほぐれることがほとんどだ。自信をもって、糸がほぐれて、考える・動くゆとりができてから1なり2へ行く、もしくはその時点で助けが不要であればここでおしまいにする。
自信がなかったり、頭の整理がついてない状態にある人が要するにどうなんだ、何が問題なんだとすっぱり話をすることは難しい。同じく論理的に筋道を立てて状況を説明し、だから具体的にどこをどう助けて欲しいと言うことも難しい。その状態に助ける側がフラストして、要するになに?なにしてほしいの?何が問題なの?と詰め寄ってしまっては一層相手は自信を失ってしまうし、こんがらがってしまう。それでは相手を助けることにはならない。相手をより悪い状況へ落とすことはできたとしても。
全体を通じて言えるのは、相手を助ける・支える時に、自分がそうするために必要な手続きをいきなり相手に投げてはいけないということだ。ただでさえ当人が今置かれている状況に苦しんでいるところに、あなたを助けるために・支えるためにというスタンスで新たな手続きを投げるのは当人をより一層苦しめる。そんなことする余裕はどこにも見当たらないのだから。かといってそれを断ることは、自分を助けてくれる・支えてくれる人の親切心を無下にするという罪悪感まで当人に抱かせてしまうのだから。
一層身動きをとりにくくしてしまうことにしかならないのだ。
特に自分が相手より立場が上の場合はなおさらだ。上から言われたというプレッシャーも上記に加わってより状況を悪くする。
本当にその相手を助けたい・支えたいのなら、その舞台づくりを困っている当人に丸投げしてはいけない(その後自分が困りごとを解消することに責任を負うのなら話は別だが)。そこを丸投げして、より一層苦しい状況に追いつめられてパフォーマンスが下がった人間を尻目にその舞台で大手を振って方向を示し、こんな感じでいけと具体的なイメージを投げ、助けた・支えた気になって悦に入って去っていく(往々にしてこういう人は事態をきちんと理解せずピントがぼけた方向を示しがち)。
これは一切、助けることにも支えることにもならない。
本当に誰かを助け・支えるということは、同じ目線・同じ立場にたって相手を理解し、相手を下から支えて舞台にふたたび乗せて、そこで存分にパフォーマンスを発揮できるようにしてあげることなのだ。

メンターとの再会

気がつけば前に会ってから一年が経っていた。メンターが日本へ帰ってきた。前々から一度話しましょうという話をさせてもらっていたので早速。どんなことを話そうか、離れていたこの期間自分のチャレンジはなんだっただろう、自分の変化・成長はなんだっただろう、インド帰りの重たいからだと少しぼーっとした頭で考えながらその時間を待っていた。
一緒に働いていた時間が長いのと、メンターが特徴的なのと?で、足音で当人が近づいてくるのに気づくことが出来ていたのだけど、その感覚も鈍っていなかったようで案の定実際に部屋に入ってくる前に、”あ、きたな”と感じる。これさえも懐かしく感じる。
いざ会ってみると何を話していいやら聞いていいやら。後から思えば、メンターに促されるまま、自分とチームの過去、近況、チャレンジについて話してアドバイスをもらい、メンターのアメリカでの経験等々の話を聞き、なんでもかんでも話していたらあっという間に1時間が経っていた。
もっと成長したいな、と思った。
#インド旅行記?については後日書きたい。たぶん、書くと思う。

苦しい時に差す光

ということでタフなのですが。改めて身をもって感じたのが、そんな苦しい中で救われたように感じるときは、彼らがなるほどそうかとうなったりするような示唆をだせたときだったり、クライアントからの感謝の言葉をかけられたりしたときだ。
肩がとても軽くなる。また走り出せる力をもらえる。
同時に思うのが、クライアントが唸ること・喜ぶことと、客観的に彼らを見たときに言うべきことを混同してはならない、タフな環境から一時的にでも救われるためだけに前者に流れてはいけないということだ。
(something newを毎回用意するだったりという、価値を感じてもらう・合意形成をしやすくするような演出は時にあるが、演出で肝心の中身をごまかすようなことはあってはならない)
あくまで達成するべきはプロジェクトのゴールであり、その先にあるクライアントの成長への貢献だ。プロジェクトは短期集中で、仮説検証のために様々なチャネルから情報を集め、様々な角度から検証する。仮説は完全に棄却されるものもあるし、進化してより面白いものになっていくものもある。そんな過程では苦しい時もある。その過程でクライアントが喜んでくれたり楽しんでくれるようなネタもみつかる。
そこがふんばりどころだ。
苦しい中で、この話をしたら彼らは喜んでくれる、満足してくれるというポイントが見つかったときに、そこに走り始める前に、本当にそれはプロジェクトのゴール達成の観点からして価値があるのかと丁寧に問いただせるか。往々にして熱が覚めたらその時は喜んでいたクライアントからさえもso what?って言われることは目に見えているのに、苦しさの渦中にいる人間はそれを見て見ぬふりして短期的な安堵を求めがちだ。
一方で、かといって意固地になって彼らの興味をねじふせることなく、”低いところになっている実”として上手く収穫することができるか(チームワーク、モチベーション強化という観点から大切)。
コンサルタントを医師に例えることが時折あるが、自身の不養生は避けたいところ。
#スキマ時間に書いたらまとまりのない状態で終わってしまったきもしつつ、普段とあんまり買わならない気もしたり。。。

苦境から学ぶこと

前回のエントリーでChallengingなタスクがひとつあると書いたが、想定通りにタフだ。苦しいの通り越して笑えてしまう程。
とても幸せなことに、多くの人がsupportiveで、タフな最中ながらもたまに感動を覚えてしまう。勿論いいことばかりではなくて、そんなタフな環境にあっても(いや、あるからこそか)、プロジェクトで証明する仮説であったり、そのアプローチであったりの議論もしばしば感情的にぶつかってこられてしまうこともある。勿論僕も感情的になってしまうこともある。supportiveな風で刺してくるひともいたり(こうしてかいていくとどんな環境なんだって感じなんですが)。
supportiveな方には、既に書いたがときに涙が出そうなほど感謝したくなる。自分が相手に対して今、そして今後どういう貢献ができるだろうかと考える。
ぶつかるべきところは徹底的にぶつかる。それは自分の中でこうすることがクライアントに対する価値を出すために必要なのだと信じているからだし、やりきる覚悟を決めているからだ。で、その結果より良いものがでたら嬉しいことだし、相手の意見がより素晴らしいものだったら素直にそれを受けとる。感謝の気持ちと、(相手に不快な思いをさせていたら)ごめんなさいの気持ちを込めて。
その他ノイズに感じる部分は極力流す。クライアントがいて、価値を出すためのリソースがあって、自分もそのリソースの一部で。プロジェクトの活動効率を損なうものであったなら対処しなくてはならないが、そうでないならば、対処にリソースを使うことはプロジェクトの存在目的に反するから。まあ、キレイに流せないのが人間だとも思うけども。だっていい気しないし(←流してない)。
そんなこんなの中で鍛えられるのは、自分の周りに困っている人がいたときにどうすればその人が嬉しいか、助けられるか、ということに対する想像力と具体的な打ち手の提供力だと思う。
ケーススタディのように、他人の事例から学び自分の場合に備えることができたら良いのかもしれない。しかし、基本的に苦しんでいる状況というのは本人がまず他人にオープンにしない(進んでオープンにしたい内容でないと考える人が多いし、そもそもオープンにする余裕を失ってその状況にあったりするわけだし)。一方で、自分が苦しい状況に置かれると、圧倒的に、そして具体的に苦しみを経験することができる。
そしてそこに立ったときに、何をされたら涙が出るほど嬉しいのか、何をされたら・・・なのかというのはとてもよくわかる。
勿論、何をもたらしてくれる人にもその背景にはその人がいる環境の、その人への力学が存在するし、僕とその人との関係の良し悪しというのも存在する。ポジションの影響もあるだろう。
そんなこんなを慮りながら、自分はこうだったから誰でもこうされたら嬉しいんだなんていう汎化はせず、喜べない反応があった場合も自分を顧み相手の背景や立場に想いを巡らせることを怠らず(辛いときは流しますが)、相手の苦しみに対する想像力と、それを解消する力を鍛えることができると信じている。