父親との食事

僕は父親と腹を割って会話をする、ということを今までしてきたことがない。腹を割るどころか会話という会話をしたことが無い。小学校時代、中学校時代、高校時代、大学、社会人、どのステージにおいても、友達の話も、部活の話も、勉強の話も、ましてや恋愛の話も。
ただ、小さい頃、小学校時代、中学校時代の記憶として残っているのは、物心付いた頃から 僕は父親に気を遣うようになっていたということ、心のどこかで父親を怖がっていたということ。どの空間でも父親と二人きりになることを無意識でか意識的にか、避けるようになっていた。二人きりになったとき、自分がどう振舞えばいいのか、わからなかった。
そんな意識も、当たり前ながら成長するにつれて変化が生じてきている。最も大きい変化が生じたのは高校を卒業し、大学に入ってから。一人暮らしを始めてからだと認識している。


僕は大学に合格したとき、私立に行くのか国立に行くのかで迷っていた。家庭事情なんて何も意識していない僕がその判断基準にしていたのはただひとつ。”やりたいことができるか”それだけ。結果僕は私立を希望した。自分で学費をちゃんと計算したことは無いが、パンフレットや手続きの書類をみていると、学費は2倍強ほど違ったと思う。
父親から言われたことは1つ。
”やりたいことができる方へ行け”
そして小声でちょこっと1つ。
”国立のほうが学費は安いぞ”
僕が学費の違い、そもそもお金のありがたみであり稼ぐことの大変さ(そして面白さ?)を感じ始めたのは大学に入り一人暮らし、バイトをし始めてから。それまで上記の小声での内容は何も意識していなかった(その後反省した)。そして何のためらいも無く、喜んで私立への進学を希望し、決断した。
4年間を通して、僕は親の存在の大きさとそのありがたさをいくらか感じることができるようになっていた。それまでがあまりに鈍感であったのかもしれないが、それでも、だ。そして、心配性の母親の電話の後ろからちらほらと父親の声も聞こえるようになり、相変わらず二人で何を話すことも無かったが、僕の頭の中で昔の怖い、気を遣う父親像というのは徐々に解け始めてはいた。それでも僕には自然な接し方というのがわからなかった。わかろうとする気持ちの芽さえも存在しなかったと思う。
大学が決まった頃、母親からちらっと、父親が会社の同僚に僕の進路を嬉しそうに話していると聞いた。なぜかたまらなく嬉しかったことを覚えている。
そして就職。ここでふと思い出したが、僕は、進路にしても就職にしても、親にアドバイスを求めたことが無かった。就職活動をしているときも一人で日々動き回っていた。
内定が決まり、家へも連絡した。そのときも父親とは直接は会話していない。電話に出た母親にまず話をした。後で、父親がその話を聞いて涙ぐんでいたと聞いた。それもまたなぜかたまらなく嬉しかった。
社会人になり、僕も親から見てある程度一人前の人間として見られるようになったのだろうか。実家に帰って夜母親と話をしていると、二人でありこの家庭でありの過去であり、様々な”陰”の話を聞けるようになった。陰というと大げさかもしれないが、苦労話である。ただ、人間関係であり、お金のつながりがすこしだけ入り組んでいるだけだ。
僕は驚いた(愕然とした)。
微塵も気付かせない親の教育態度であり日常の振る舞いに。
そして、微塵も気付かずに(父親には気を遣いつつも)好き勝手して甘えてきた自分の振る舞いに。
親の偉大さを垣間見ることができた瞬間であったと思う。
…社会人になってからも(方が)親とはいろいろあったのだが話がどんどんそれていくので割愛(^^;)
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そんなこんなで相変わらずのスタンスでいた父親が出張で東京に来るというメールがきた。飯でも食いに行こうと。僕は仕事のスケジュールを調整してOKと返事を返した。
ただ、いざ考えてみるとわからなかった。こうして二人で外で食事をするのはおそらく物心付いてから初めてのことだったからというのも大きいだろう。
僕は父親の前でどう振舞えばいいのだろうか?
僕は父親に対して何をどんな表情で話せばいいのだろうか?
そんなもんどうでもいいじゃん。というような内容なのに引っかかってしまうし、それに対して明確にどうしよう、なんて答えは無かった。それでも仕事に関しては最近の精神的/肉体的な疲労もあったし、少し話をしてみようかな、とは思っていた。
駅で待ち合わせて軽く挨拶をし、店を探す。お互いに店の場所を正確には把握していない。適当に歩き回る。僕がPCで調べていたので住所を伝えてそこから軽く探す。
幼い頃の僕だったらこの時点で怯えていたと思う。こういう状況でいらだつ父親を何度か見た覚えがあるからだと思う。
それでもこの時はそういう感情は殆ど無かった。一瞬沸き起こったが、その感情を抱く場面ではないとその場の空気、父親が醸す雰囲気、自分の内側が教えてくれた。
見つけて店に入る。
コースを頼み、飲み物をオーダーする。
父親は昔は相当飲めたという話を聞くが最近はめっきり飲まない。今日は一杯くらいは飲むかと思ったがウーロン茶をオーダーした。僕の分も父親がオーダーしてくれた。僕はビールが飲みたかったが、言えなかった。勿論父親がオーダーしてくれたものでも悪くなかったので。
ふぐ料理だった。
父親は殆ど食べなかった。ただ、焼きふぐもてっちりも、すべて父親が準備し”これ食えるぞ”、”食え”という。僕は”ありがとう”、と返して食べる。”うまいな”という言葉に”うん、おいしいね”と答える。それが続いた。
会話の中で言葉としてやりとりされたのは、仕事の話と家の話。
”仕事というのは結局は信頼関係だ”
”上司ができない人間でも、そいつの仕事はとってはいけない”
”自分でできることなんて限界がある。部下がうまく動けるために自分がどうすべきかを考えることが大切だ”
僕は頷くばかりだった。そして、
”母親は心配性だからたまには電話してやれ”
”メールはできれば返してやれ”
僕は頷くばかりだった。
文字に落とすと他にも会話はあったにしても大した量にはならない。
ふぐは実質二人前食べておなかは一杯だった。
そして心も一杯になっていた。
上に書いたとおりで言葉としてのやりとりの量は大したものじゃない。それでも父親とそれまでやり取りしてきた言葉の量とその深さを考えたときにその割合はきわめて大きい。
そして、僕がふぐをひたすらくっている顔を嬉しそうに見ている父親の表情と、酒を控え、食事の量も減らして健康を気遣っている父親の姿が僕の心を満たしたのだ。
なんと表現していいのか良く分からない。ただ、これまで埋めようとしても埋まらなくて、それでも埋めたいと切に願って一人で頑張ってきた部分にぴたっとはまるものが落ちてきて、そしてはまったような気持ちがして、それが何か言いようの無い温かさを持っていた気がしたのだ。
人から受けた恩を量で表現することなんてできるとは思ってない。有限であり、明確に返すことができ、それで終えられるものだなんて思ってはいない。
だから僕は父親、そして母親に、健康で、長生きしてくれることを心から望む。
そうある限り、僕は二人の生活を豊かに、幸せにする手助けができるはずだからだ。長生きはその期間を広げ、健康はその幅を広げる。その手助けの中には僕自身が健康で幸せな人生を歩むことも勿論含まれているだろう。二人の健康や長生きを支えることも含まれているだろう。
自分の中で父親のイメージは、体型は変わらないが、僕を見る目、醸す雰囲気を変え、そもそも何を思い、何を感じ、何を考えていたのか、という”内側”に目一杯の温もりと包容力と、適当さと威厳を併せ持った存在へ変化した。そして親の大切さに改めて気がつくことができた。
この手のものは失わない限り本当の大切さや偉大さには気付けないものだと僕は考えている。しかし、失ってからでは全てが遅い。今のうちからその大切さをしっかりと見つけ、自分が受けてきた恩の(計り知れない)大きさを感じ、できる限りのことをする。
キレイ事のように聞こえるかもしれないが、やっていきたいと思うのだ。

「父親との食事」への8件のフィードバック

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    なんか、目頭が熱くなるね。 Sagadの根の部分の気持ちよさは、育ち・家庭の良さ(当然金銭面だけでなくね)とそれを理解できるやさしさからだろうなぁ。 

    ところで、存在をソンゼイと打ち間違った? それともテレ?

  2. SECRET: 0
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    あ、打ち間違いですね(^^;)修正しました。
    ここに見ても自分の弱さであり人として不足している部分であり、どんどん見つかってくるんですよ。勉強や仕事では埋められない”人”としての部分に。
    僕はまだ弱さと優しさをちゃんと分けて認識することができなかったりするときもあるのでなんともいえませんが、強さであり厳しさであり鋭さであり、というものを優しさで包んで持っていたいですね。

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    私も、物心ついてから15年間、父と口を利いたことがありませんでした。
    大学進学も留学も卒業後の進路も、全部勝手に決めて、父は母から
    報告を聞くのみ。随分、父が寂しい思いをしていたと、後から聞きました。

    あるきっかけがあって、社会人になってから、まとも父と言葉を交わすようになりました。それでも、父と二人だけではどうしていいか解らず、兄に同席してもらって^^;。
    それから1年して父は亡くなりましたが、その1年、ほんの少しの期間ではあったけど、ちゃんと対話することが出来て、今はとても良かったと思ってます。もし、あの時あのきっかけがなかったら、父と和解することなく、一生後悔して鉛を抱えて生きなくてはならなかった。 ぎりぎりセーフって感じです^^;。

    でも、仕事をしていて、今父に意見を聞きたい、父の仕事観をききたい、
    人生観をききたい、と本当に思います。どうしてもっと沢山話しておかなかったかと思います。やっと、一個人と一個人として、話せる年齢になってきたのになぁ、と。

    sagaさん、沢山お父様から学んでください。
    死してなお、子に教え続ける親という存在は、本当に偉大だと思います。

  4. SECRET: 0
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    血のつながりにしても、幼い頃に受ける影響にしても、おそらく最も深いであろう関係を持っている”親”という存在から学べるものを学ばずしておくのは本当に勿体無いことですよね。
    一人暮らしをして、自身としてやりたいことに向かいつつ日々生きている中で忘れかけておりましたが、触れてみてその温かみ、大きさに気付くことができる。

    忘れず学んで生きたいですね。

    上記と関係ないのですが、僕が普段注意されるご飯の食べ方を父親もしているのをみて、それが妙に微笑ましかったです(^^)ああ、親だなあと。

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    sagadさん、良い時間すごせたんですね。
    よかったですね。

    親は、社会から子を守る空間を作ってくれている。
    だから、その有り難さは、なかなか実感できないものかもしれません。
    そして、社会に巣立っていく子供を、陰から応援してくれている。
    その心配さも、子供はなかなか気づかないかもしれません。

    故に、親と子が素直に語り、感じたことを話すこと。
    これ以上、神秘的なときはないように思えます。

    それは一時でも、一時期でも、あることはとても幸せなことだと思います。

    よかったです。

  6. SECRET: 0
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    ありがとうございます。
    親のありがたさ。本当に気付いても気づききれないものなのだろうと感じつつもやはり気付くことができると嬉しいものですね(^^)それがずっと続いていくのだろうと思います。なので出来るうちに出来ることはしておきたいと。たとえそれが自分勝手であってもそう望んでしまいますね。
    そこと親がされたいと望むものが一致するとベストなのだと思いますが(極論すると親にかまわず自分の人生に集中しろと心から望まれたら、草することが親孝行だと。)

    学生の頃、社会人になりたての頃、何回か親とぶつかったこともありますが、それも結局、まつさんがおっしゃるところの”子を守る空間”の中にイながらにしてとがっていたに過ぎないと思います。

    親の言うことは100%正しい。なんてことは全く持って同意しませんが(100%正しいことを言う親は世の中のどこかにはいるのかもしれませんが)そもそも、正しい/正しくない、なんていう尺度をで考えることが誤りなのかな、と思います。

    少し意味が不明ですかね(^^;)失礼しました。

  7. SECRET: 0
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    正しい/正しくない
    コミュニケーションには、不要な尺度なんだろうなと思います。
    必要なのは、どう感じたか(うれしい、かなしい・・・)。
    でも、
    親の心、子知らず、この心、親知らず
    親も人の子なんですけどね。
    親が言わんとしたたことを実感できると、歳やなーと思います。

    一方で、ついつい、親はどうこう指図をしてしまう。
    自分が親となると、はたして、子の心を分かち合える親になれるのだろうかと不安がよぎります。

    子が何をどう思っているか。
    それが道徳的に、社会的に、どうこう言う前に、
    その事実(子供がそう思っていること)が存在することを受け入れて、
    そこから方並べて話せる度量を得たいと思います。

    「そうか。○●と思うんだね」から、スタートしたいです。息子との会話。
    (人の道を外した時は、怒らないといけないですが)

  8. SECRET: 0
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    >必要なのはどう感じたか。
    >親が言わんとしたことを実感できると、歳やなーと思います。

    同感です(^^)
    僕もこれから実感を得ていくのだと思います。

    >子が何をどう思っているか。
    >それが道徳的に、社会的に、どうこう言う前に、
    >その事実(子供がそう思っていること)が存在することを受け入れて、
    >そこから方並べて話せる度量を得たいと思います。

    7つの習慣を思い出しました。
    相手の口から出る言葉を自分の価値観に当てはめて解釈するのではなく、相手の口から出てきた言葉のうらにある相手の価値観も受容れられるようになりたいと僕も思います。

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