I need to … / I want to …

今日は仕事を早めに切り上げ、GLC(Global Leaders Club)主催のセミナーへ行ってきた。内容はリンク先の通り。メンタルタフネスを鍛える、ということについて。あまり意識せずにセミナーを予約し、参加したのだが、自分にとってはとても大切な気づきを得ることができた。
内容は聞いてみると、7つの習慣の中で言われている”Response + Ability”における具体的な対処の仕方であった。
”Response + Ability”について
外部環境から受ける影響と自分が内部/外部で生じさせる感情であり、外部へのResponseというものに直接的な関係は無い。Responseは自分で選ぶことができる、選ぶ能力(Ability)を誰しもが持っている(だからどのような外部環境下に自身がおかれていても、主体的に行動できるのだ)ということ。
で、その中で強くメッセージされていたのが以下。
1. プレッシャーは自分でつくっている。
2. ”~しなくてはならない。”ではなく”~したい。”へシフトする。
3. WillingnessとCapabilityは分けて考える。
1は既に書いたとおり。外部環境から何らかの影響を受けた、そのResponseとして自分でプレッシャーを受けるという選択をしているのだということ。そしてそのときの選択肢はプレッシャーを受けるというものだけではないということ。
2は絶対要求と相対要求について。
絶対要求(~しなくてはならない)というのはプレッシャーを自分に強く与える思考であり、また現実から見て論理的に正しくない思考である。絶対こうではなくてはならない、と思っても事実がそうあることはまず無い。事実に対して論理的に矛盾した思考であり、その矛盾に対して”不安”であり”怒り”であり”落ち込み”であり”罪悪感”というものを感じてもそれは現実逃避、攻撃、燃え尽き、自己へのネガティブなレッテルを貼るという無益な行動に繋がる。
また、絶対要求は甘えである。絶対要求は論理的な思考で無い上、ただの無いものねだりに過ぎない。
相対要求(~したい)という考え方は論理的に正しい。事実そうあることは絶対でないことを受容れた上で、そうありたいと強く願うことであるから。
勿論相対要求を抱いて、言葉として”~しなくてはならない”と発することもあればその逆もあるが、自身の内面に絶対要求を抱くことはプレッシャーを強く自分に与えてしまう可能性が高い。
逃避に繋がる不安は準備に繋がる心配へ、攻撃に繋がる怒りは攻撃せずに対処/解消できる不愉快へ、燃え尽き/とじこもりに繋がる落ち込みは発散/コミュニケーションに繋がる悲しみへ変換することが大切。罪悪感は、そもそも100%完璧な人間なんていうのは存在しないのだから、それに苦しめられて自ら自らに×のレッテルを貼ることは論理的に矛盾しているということで回避(?)。
3は2から派生したメッセージ。”~したい”ということと”~できる”ということは別。
例えば相手の行動がどうしても理解できない、受容れられないというようなシチュエーションを考えたときに、”我慢したい/したくない”と考えることと、実際に”我慢できる/できない”というものは別ということ。
3は理解できるが、でどうするんだ?というのはちょっと分かっていない。ただ、大切なのは(特に外部環境に対して)絶対要求は避けた方がいい、ということ。それは既に書いたとおりで自分に対しての燃え尽きや無力感へ繋がる。
そして上記に加えて大切なのは、相対要求(強い願望)を抱くということは絶対要求に対して、意志が弱いということはないということ。強い願望を抱くということと願望にとどめて現実を諦めるということは違うということ。他責にはしないこと。青い鳥はどれだけ探しても見つからないということ。プレッシャーを受けるという選択肢を選んでしまう可能性を著しく高めるような環境にいたとしても、そもそもプレッシャーというもの自体が自分にとってネガティブな影響を与えるのかポジティブな影響を与えるのでさえ自分で選択できるということ。
きわめて論理的で単純。面白く、大切な気づきであった。
セミナーにて偶然、経営戦略を共に学んだHさんに会った。久しぶりにお会いしたのだけど相変わらず物腰柔らかく穏やか。癒された(^^)
そして、大学院で勉強してることやその後のこと、短い時間ではあったけど色々とお話しすることができた。やはり共に学習する仲間の存在というのは貴重であり、本当にありがたいものであると思った。
自身もより傾きを上げて成長しなくてはならないしたい(^^)
ちなみに、イチローは絶対要求志向がつよく、松井は相対要求志向が強いらしい。また、日本人というのは絶対要求を貫く性向を美化する傾向があるらしい。

尊敬できる人

3月末を持って会社を辞めた人がいる。その人は次のCareerとして起業を選択したのだ。Projectに共に参画するという経験は持てなかったものの、志が高く、人間としても素晴らしい方で、話していて刺激を受けられる、尊敬できる人だった。
4月には入ってから偶然その人とあった。ほんの一瞬だったのだけど、軽く挨拶をして一言二言話す時間はあった。見かけて向こうから手を振られたときは、思わず”あーっ!”っと大声を上げてしまった。
お互いこれからも成長し続けよう、と握手をした。自身とこれから自分の夢に従って生きていく彼の笑顔は眩しく、また重厚な自信に溢れていると感じられた。負けたくないし自分もそうありたい、そう思って強くその手を握り返した。
何故だか分からない。彼は僕をとても高く評価してくれていた。ProjectでないTaskは少々重なったことはあるが、上に書いたとおりでProjectに共に参画した経験は無いのに。意志でお互い通じる部分があったのだろうか。僕が自分として将来どうありたいか、そのために今何をしなくてはならない/している、というような話はしたことがあったが、それで何かその人の心に通じるものがあったのかもしれない。
「自分は今までその場その場で与えられた目的に対しては常に期待を上回る結果を出してきた。でもそれを繰り返してるうちにだんだんと疑問が湧いてきた。”自分が存在する目的”は何なのか?と。で、それを突き詰めて考えた結果今回の選択に至った。それを考え始めるのに結構時間がかかったのにsagadは今の時点でそれを見て動いている。自分が若い頃にはそういう視点はなかった。早いうちに気づけてるんだからどんどん動いた方がいい。」
そんなことを言われて反省して本音を話したことを覚えている。
「自分はまだそこまで詰め切れていない。詰めた結果として今の場所に存在しているわけではないのだ。」と。「ただ、そんなことを続けていてはいけないということと、やはり自分として生まれたからには自分として存在する意義は自分で決めたい・掴みたいということは思い続けているのだ。」と。
自分として尊敬できる人間というものを正直に書くと、
・正直
・誠実
・責任を全て自分で負う覚悟がある
・人を否定せずに受容れる余裕を持っている
・自分の存在意義を考え続けられる
・夢と、それをかなえる意志・行動力を持続的に持てる
・夢や意志を人にきかせる魅力的なコミュニケーションができる
・ユーモアを忘れない
その人のことだ。
翻って、今の自分を自分は尊敬できるかと考えてみる。とてもじゃないけどできない。
・自分に正直に、自分として考えているかを明確に主張できているか?
・相手に対して誠実に接することができているか?
・自分が関係する事象の責任を自分のものとして受止められているか?
・人を否定せずに受容れることができているか?
・自分の存在意義はちゃんと考え続けているか?
・夢を忘れていないか?忘れていなくても夢を見るだけで終わっていないか?
・ロジックばかり気にして自分の夢や意志をつまらないものにしていないか?
・ユーモア忘れてカタくなってないか?
同じことをずっと考えているような気もするし、おなじところを周っているような気もする。勿論それはそれで良いことではないのだけど、さらに良くないのは考えること/動くことをやめてしまうことだ。諦めたらそこで終わりだ。
まだまだやりたい。やれる。
そう信じる。で、やる。
その人にも、自分にも負けたくないし、胸を張っていたい。

ドレミにて

4日(火)はたまたま東京に出張に来ていた大学からの親友と人形町のドレミへ飲みに向かった。知らなかったのだけど有名な鉄板焼きのお店らしい。おいしかった(^^)
文字で書くと微妙だけど、ざっくりかくと、マヨネーズが遠くから細い滝のように飛んでくる。玉ねぎでドームがつくられてその中に油かお湯かを注ぐことで火山に見立てるような”見せる”焼き方を披露してくれる。そして味はおいしい。お好み焼きはふわっふわ。
で、話題に上ってきたのは2つ。
1つは仕事、1つは結婚。
今年前半に、今の会社を辞めて次のキャリアへ進む。そして結婚する。当然ながらその2つに話題は集中した。
最近仲の良い友達が何人か結婚に至っているが、その過程はやはり一筋縄では行かないようだ。そして、その一筋縄ではいかない過程を二人で乗越えていくその過程にて、二人でそれから先末永くともに生きていく、物理的な準備であり精神的な準備がなされていくように思える。また、お互いが自身の親から、本当の意味で自立するタイミングも、結婚というタイミングなのかな、という気もする。
特にお互い実家住まいで、俗に言う半同棲等、お互いの日常生活に関しては触れてこなかったという二人であればなお更その準備にかかる負荷は大きく、その負荷から得られるものも大きいだろうと思う。生活のサイクル、その中での優先順位のつけ方、種々の振る舞い等、付き合うという経験だけでは見ることができないものが見えてくるのだから。その結果として、自分の価値観だけじゃない、彼・彼女だけの価値観じゃない、二人の価値観というものをつくりあげていくんだろう。
で、この結婚というタイミングで親から本当の意味で自立しているような気がする。なんでそんな気がするのか考えてみた。端的に言うと”帰る家が変わる”からだろう。自分たち二人で、親にはできない自分たちの家庭というものを築いていくからだろう。そして、この結婚というものを機に、自分個人として背負うものが、自分自身の人生以外にも発生するからだろう。
なんだかんだいいつつも、彼らの幸せを心から祈っているし、それを実現する上で自分にできることがあれば、で、それを自分がやるべきならば、ちゃんとやってあげたいと思う。
結婚する友達みんなに、”なんで結婚することを決めたの?”と聞くと、大体はっきりした答えは返ってこない。勿論自分のうちに秘めておきたい、って人もいたのかもしれない。ただ、よくよく考えてみると、その質問に対して、”うん、理由は3つあるよ。1つは…”と明確に答えられてもおそらく自分は納得しないんじゃないかと思う。
結婚する理由を知りたい、と思いつつも、それが言葉で100%説明できてしまうことを望んではいない、というところだろうか。言葉で言い表せないものであって欲しい、もしくは言葉でキレイにまとめてしまうことがもったいなく思えるような自分たちとして特別なものであって欲しい、みたいな。
まあ、自分がするときになったら結果として身を持ってわかるのだろう。

書棚を買う

本が増える。
自分が買っているから増えるのだけどそれにしても収まりがつかなくなってきた(^^;)何百冊とまでは行かないにしても2xx~3xx冊くらいはあるだろうか。
ということで大きい書棚の購入を決めた。
これからも色々な本を読むのだろうし、邪魔にならない程度に大きい書棚を持っていた方が本も整理しやすいし参照するものも選びやすいだろうから。
何でこんなに本を読むようになったのだろうか。思い返すと過去読書にはまった時期は小学校3年生の頃だと思う。確か1月に100冊位読んでいた時期があった気がする。図書館で借りて、家で読んで、翌日返してまた借りる。ひたすらその繰り返しだった。
その理由は若干曲がっている。
シールが貼りたかった。
そう。読んだ冊数だけシールを貼っていくという仕組みがそのクラスにはあったのだ。何で貼りたいと思ったのかまでは覚えていない。勿論読んだ本も面白かったのだと思うけど(あんまり覚えていない。)、シールを貼っていくことが楽しかった。そして貼りたかった。
だんだんと本来の読書らしい目的に動いていって、難しい本を読むのが楽しかったり、その中にある世界に浸るのが楽しかったりというのを求めるところへシフトしていったのだけど(^^;)
そして今、正確には社会人になってから。なんでまた本を読むようになったのか。さすがに月に100冊は読んでいないけど。その理由は純粋といえば純粋なのかもしれない。
知りたいから。
そう。いろんなことを知りたい。自分が考える幅を広げ、深めていきたいという単純な希望というか欲求に従ってのことだ。ビジネスに関しての書籍を読むときは、本に答えは求めない。そこを自分で考えるのが一番面白いところだからだ。だから今の自分でそれより的確な答えらしいものを考えつかないような内容が本に書いてあると悔しい。損をしたような、自分が走るより先にそのレールを敷かれてしまったような、ただその鮮やかさに触れられたことが嬉しいような、微妙な感覚を味わう。
これまでに何度か書いてきたと思うけど、ビジネスを考える上で大切なのはアウトプットをすることであり、そのアウトプットの価値が自分の価値だ。インプットすること、インプットの価値というのは、アウトプットのそれに貢献できなければ無意味だ。
なのだけど、全てを意図的に設計して動くというのは、それはそれで窮屈だ。
戦略があり、その戦略を実行するために実現させなくてはならないことがあり、それらを実現させる手段がある。その手段として自分で読書をするということが最善であるものについては読書をして…
ってまあそれはそれでいいのだけどそれはそれ。
純粋の本の世界にふらりと入っていく、そんな本の読み方、結果としての知識のみにつけ方、結果としての何かの実現。
そんなものもあっていいんだろう。そんな気がする。