突破するアイデア力

突破するアイデア力 ~脱常識の発想トレーニング~
三谷 宏治 (著)
三谷さんがCAREER INQ.COMで連載しているショートエッセイ”三谷宏治の学びの源泉Ⅰ”をまとめ、補筆・増強を加えられた一冊(ちなみに現在は”三谷宏治の学びの源泉Ⅱ”を連載されている)。
三谷さんの考えに触れたのは上記サイトを見たのが初めてだった。そこで発想の面白さ、シンプルなロジック、洗練された言葉遣いに惹かれていくつか書籍を手にした。
本書はサイトにて部分的にエッセイを眼にしていたので購入しようか迷っていたのだが、やはり自分の考えを書き込みながら読める/一覧性がある、といった点に鑑みて購入しようと考えた。
SF、歴史、マンガ、旅行、失敗、家造り、家族・・・と、三谷さんのこれまでのいくつかの経験から、どういったことが学びとしてあるのか、実際のコンサルティング等の活動にどう活かされてきたのかが書かれている。
一言にすると、”自分の人生を味わい尽くそう”ということになると解釈している。
味わい尽くすために2つのことをしようと。1つは自分が日々重ねている経験の1つ1つを自覚すること。もう1つはその経験の1つ1つから自分として何を得るのか考え、自分のものにして蓄積していくこと。
そのために心身に”遊びの部分”をもつ必要があると。
勿論すべてが経験をした瞬間にわかるものではない。過去の経験を振り返る視点が新しくなった結果学びが得られるときもあるだろうし、複数の経験が線で繋がった結果新しい何かを得るということもあると思う。それでも、自分として生きている日々をただ生きて終えていくというのはもったいない。それでは自分(独自の)アイデアの幅を広げることはできない。
この突破するアイデア力にある内容は、きっと誰しもが自分なりの内容を書くことができるのではないかと思う(今すぐ書けるかは人によると思うが)。
大切なのは(味わい尽くすための2つのことに戻るが)、自分の経験を自覚し、その経験の意味を自分の言葉で解釈し蓄積することだ。
内容に入って、個人的に印象に残った個所を、以下にいくつか抜粋する。

例え何かを数多く経験しても、そこから本質的インサイト(示唆)を得られないのでは全く意味が無いし、しかもそういったインサイトは、人生のあらゆる経験から得られるものだ。

「良い問いは答えを含んでいる」(中略)「誤った問いに答えはない」

歴史の足跡のすべてに、現代の身の回りの事象たち一つ一つに、意味がある。それを作り上げた人々の意思がある。

人であるために、人であることの意味を最大限活かすために、心に余裕(ヒマ)を持とう。

対象が何であろうと、見続けることで必ず美しさ(真実・本質)はその姿を現す。
物事はまず相手(対象)をただただ無心に見つめることから始めるべきだ。

利益力の源泉

利益力の源泉―いかに付加価値を創出するか
池田 和明 (著)
自分のコンサルティング領域であり考え方でありと重なる部分があり手にした一冊。
大きく分けると以下の問いに対して答えており、クリティカルリソースに関する話から(オープン)イノベーションという言葉が絡んでくる。
事例や経営者等の言葉も多く引用されており、本の内容とは別に、それらからも学ぶことができる。
・利益とは何か?
・付加価値とは何か?
・(今の日本企業にとっての)クリティカルリソースは何か?
・有効なクリティカルリソース活用方法は何か?
・グローバルの観点から企業に求められるものは何か?
本の中にあるデータや事例に関してはいくつか私も分析をしたり参照したりしたものもあるが、今の私にこの本を書くことができたかと言えばNoだ。部分的に過去の自分の主張であり考えでありと重複する部分こそあれ、一貫して構造立てて話ができるかというとまだそこには至らない。
自身の活動に足りない部分を見つけることができ、それが嬉しい。
印象に残った言葉をいくつか抜粋する(本書が他書籍から引用した部分含む)

株主価値の最大化のために、人はリスクをとって新たなことに挑戦するのだろうか。

ビジネスの世界では、論理的真偽を問うよりは、個別具体の文脈での行動と結果が問われる。したがって、実践的推論では、①やりたい目的がある、②これが実現する手段である、③だからこの行為を行うべきである、となる。つまり、実践的推論は、仮説・修正の実践・反復なのである。

セレンディピティとは「思わぬものを偶然に発見すること、その偶然から幸運を招き寄せる」能力をいう。そして、「果報は寝て待て」ではなく何か具体的な行動を起こすこと、偶然の出会いが会った時、その出会い自体に気がつくこと、意外なものとの出会いにおいて素直にそれを受け入れること、がセレンディピティを高める

「世界にたった二枚しかない巨匠の原画を、一枚売ってしまえば、あとはたった一枚しか残らない。どうして、そのような希少価値のある絵を安くしなければならないのか」

「変化をマネジメントする唯一の方法は、自ら変化を起こすことである」

夢をかなえるゾウ

夢をかなえるゾウ
水野敬也 (著)
読み物として面白い。計3時間程度で読みきった。
関西弁のガネーシャが面白い。自分の人生を振り返ってみると高校を卒業してから一番長くいたのが関西なので、関西弁がまず懐かしい(面白いことを関西弁で言っているのを聞くのがすき)。
本の中でも言われているが、本に書いてあるそれぞれのメッセージは読めばどこかで聞いたことがあるものが多いと思う。それらの本との違いは2つ。
”今”を変えることへフォーカス。
メッセージは知って満足してるだけじゃ絶対に変われない。自分の意志を変えようとしたってそんなもの変わらない、変えようと意気込んで、変えられなくて意気消沈するか、何事も無かったかのようにそれまでと同様の生活をするのがオチ。小さくても良いから”今”の行動を変えろということを一貫して主張している。
物語形式での進行。
神様ガネーシャが上記のように変わりたいと思いながら一向に変われない主人公にアドバイスを与え、主人公はそこから学び、実際に行動し、少しずつ変わっていく。ひとつひとつのメッセージの必要性や確からしさがアカデミックに語られることは微塵も無いが、分かりやすい言葉で、主人公にとっての現実という具体例をもってわかりやすく、自分がどうすればいいのか考えやすいように(そして変わりやすいようにかな)書かれている。
印象の深かった言葉を1つだけ抜粋する。

「一つだけ、絶対にあきらめたらあかんことがある。」
「それは何ですか?」
「『自分』や。自分には何か才能がある、自分にしかできない仕事がある、そのことに関してはあきらめたらあかん。見つかるまでそれを探し続けなあかん。自分自身に関してはあきらめたらあかん。」

自分にしかできない仕事ができているだろうか。

生物と無生物のあいだ

生物と無生物のあいだ

福岡 伸一 (著)
プロジェクトを共にしていた極めてシンプルでロジカルな方が”これは秀逸だった”と言われていたので手にした一冊。

最初から1/4程度は本に込められた意図をうまく解釈することができず淡々と読んでいたが、途中から著者の世界に入り込み一気に読み終えた。今ここに至ると、本の帯に書いてある、

”読み始めたら止まらない極上の科学ミステリー”

というメッセージにもうなずける。

”人は瞬時に、生物と無生物を見分けるけれど、それは生物の何を見ているのか。そもそも、生命とは何か。”という大学時代の生物学の時間での教師からの問いをプロローグに物語は展開する。”研究”という世界の描写を入り口に、生物のミクロの世界を展開し、その後自身の研究も織り交ぜながら、問いに対する解を論理的に、実際の研究成果を辿って展開する。そしてエピローグでは情緒的には幾ばくかの切なさや生物への尊厳を含めて解を結ぶ。

ストーリーの素晴らしさ、生物とは何か?生物と無生物の境界はどこか?という純粋な好奇心から素晴らしい経験ができたが、後半、頭の中には2つの考えというか気持ちというかがあった。1つ自分の、自己中心的な考え方への気づき。1つは言葉の裏にあるもの-事実-の重みだ。

自分の自己中心的な考え方、それは、

観想力 空気はなぜ透明か
三谷 宏治 (著)

のタイトルになっている問いかけに答える過程で味わったものと同じ感覚だ。
そして言葉の裏にあるもの-事実-の重み。それは、同じ結論を言うにしても、仮説や思いつきにとどまっているものと裏に事実の積み上げがあるもので全く異なるということだ。

言ってみれば当たり前のように聞こえるが、発想するだけで終わってしまって検証をしない人というのは案外いたりするものだ。自分の言葉が全て検証済みかと言われれば自分もそうとは言えない(勿論全ての場合の発言が検証済みである必要は無い。何をもって検証済みというのか、その閾値も異なる。)。

発想力が豊かな人というのは存在するし、誰しも何度かは鋭い発想というものをしたことがあると思う。その時に大切なのは、周りが異なる発想をしても/異なる発想を支持しても、それを自分が支持できないのならば、自分の発想を貫くのであれば、徹底的にその発想の確からしさを検証することだ。

そのためにくぐりぬけるゲートがあるのなら、それを通るために必要な活動をすることだ。自分の発想にあぐらをかいて、他の発想の検証結果をみて笑っているというのはあまりにもったいない。

発想は、その行為自体をするためにするのではなく、それを現実に形にするためにするものなのだと思う。

話がそれてしまった。

印象に残っている記述の一部を抜粋する。(さすがにエピローグからは抜粋しないが)ストーリーの一部が理解できてしまう可能性があるので、それを避けたい方はとばしていただければと思う。

そうなのである。やはり、私たちには何か重大な錯誤と見落としがあったのだ。重大な錯誤とは、端的にいえば「生命とは何か」という基本的な問いかけに対する意識の浅はかさである。そして、見落としていたことは「時間」という言葉である。

機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。
生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れにそって折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。

CHERRY BLossoms

Cherryblossoms チェリーブロッサムズ
大森 克己 (著)
仕事の息抜きに開いた。
写真について色々な作品に触れてみたくて買ってみた一冊だった。買った頃は”まだ冬なのに桜の写真なんてはやいな”と思っていたのにどうやらこの週末に東京でも開花したようだ。時間が経つのは早い。
こうして作品を見ていると、気がつくのは自分の好みであり自分の撮りたい写真でありがどういうものかということ。構図はどうだ、フレームに納める色の種類はどうだ、アングルはどうだ、ピントの絞りはどうだ、光の入れ具合はどうだといったこと。
自分で好きなように撮っているだけでは気付ききれない自分に、こうした作品をみた自分の反応を確かめることで気付くことができるのだ。
コンサルティング、というか仕事のスタイルついても同じことが言えると思う。
人の型を見て、その型を経験して自分に戻ると一周り自分をストレッチできているような感じを覚える時がある。それまで意図をめぐらせずに考え、動いていた自分を、他の型を経験することによって把握することができるのだと思う。
するとそれをもっと良くするにはどうすればいいのか考えることができる(勿論経験した他の型を使うこともできる)。
他人から素直に学べることが自分の強みの1つのようだし(というフィードバックを良く受ける)、写真も仕事も、もっといろんなかたちと触れていきたい。その結果自分のかたちというものが何であるのかがより明確になればいいと思う。
#↓以上これまでの3枚、”新宿”でした。