全部ひとりで背負ってみると強みにも弱みにも気づく

自分の過去を振り返るとキャリアにおけるほぼすべての経験をチームでしてきたと思う。メンバーであった時もあればリーダーであったときもある。何にせよチームで動いてきた。チームでミッションを背負うと、その実現のためにアウトプットを定義して、タスクを考えて、分担を決めて、動く。そういった経験を終えるごとに、自身のパフォーマンスを省みる。

うってかわってひとりで全部背負ってみると強みも弱みも気づく。

もともとチームの中で自分が強みを発揮できるタスクを背負ってきたからなのか、弱みを避けてきたからなのか、自分の弱い分野を得意とする仲間が補完してくれていたからなのか。これまでチームの中では気づかなかったところに、ひとりで動くと気づく。

第一義に、一人で背負うということは自分一人で全て責任を負うということだ。責任を負うということはそれを全うするために適切な手段を選び実行し無くてはならないということだ。矛盾するようだが、そのためであればチームでない他人であっても必要とあらばその分だけ巻き込まなくてはならないということだ。

その難しさを経験して、そんな中で自分のパフォーマンスがいかにチームで動くときとくらべて低いかを自覚して、ひとりで何かを背負ってもがいている人がいたらその人をサポートしたいと強く思うようになる。その環境にいる人のパフォーマンスが思わしくなくとも – それは結果に責任を追っている以上結果が悪ければその人の責任であることにかわりはないが – 当人を責めずに他の解釈をして助言をするなり何なりの対応ができるようになると思う。

都合がいいような気もするが、まあ人間こんなもんだろうという気もする。経験が自身の想像の及ぶ範囲を広げてくれる。その想像力が他人を慮る力になると思う。

長い時間同じ環境にいるということ、とまっているということ

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同じ環境に長い時間身をおいてからその外に出ると、自覚せぬ間に当たり前になっていることが思いのほか多いことに気づく。コンサルティングを生業としていてプロジェクト毎に異なる業界で異なるテーマを扱っていても、提案も合わせたら結構な数の、多様な課題と向き合ってきたといっても、コンサルタントというプロフェッションであり、プロジェクト型のワークスタイルでありに長時間従事していたら、その外に出て初めて気づくことは多い。

ふと怖くなる。2つの意味で。ひとつは自分のケイパビリティが偏っていたということに気づいた、即ちそれに今まで気づいていなかった怖さ。自分が、自分が謙虚でいる以上に小さい存在だと今まで気づいていなかった怖さ。もうひとつは、ケイパビリティだとか自分の幅とか言う考え方をしている怖さ。そんなものを気にしてどうという話ではなく、自分が世に出したいインパクトがあるなら、自分を賭して解決したい課題があるのなら、ケイパビリティが偏るなどという話はどうでもよくて、偏ってるなら身につける、身につけている人をチームに巻き込むか、行動が全てのはずなのに、そこを怖いと言っていられるモラトリアムにいるんだという怖さ。

怖いという表現をしたが、今より早く気づけるタイミングはない、軌道修正をかけられるタイミングはない。そしてこうしたモラトリアムにいるからこそ種々の圧力なく自分の人生を考え、自分が生を受けた世界を、時代を広く捉えられるはずだ。

ひとまず、つくりだした機会に全力でこたえ、自分を変えて行きたいと思う次第。

 

物足りないよりはみ出る位の方が良い

なすべきことが一言一句定めらている仕事は別だが、仕事について物足りないと感じられるよりもはみ出してしまう位の方が往々にして良い結果が得られる。そもそも物足りないのかはみ出しているのかの判断基準は自分が価値を出すべき相手の期待値。なのでそこはおおよそでも掴む必要がある。それははみ出すはみ出さないの議論以前の問題。

期待の中には当たり前のように満たせるところもあれば、そうでないところもある。満たすためにリスクをとる必要があるということだ。リスクの切り出し方やそこへチャレンジするステップを工夫することでリスクを最小化することもできるだろうと思う。ただ、それができているのかいないか、いつとるべきなのか、そこがわからなくなり逡巡しながら物足りないと感じられるより、荒削りであってもジャンプした方が良いということ。

それができるひとが求められているからだ。

当人がマネージャになった時、ディレクターになったとき、CEOになったとき、リスクをとる必要はいつでも訪れる。勿論その時に常に正しい決断をし、正しい結果を得られるならばそれに越したことはないがそれは極めて難しいもしくは不可能だ。判断が正しいかどうかは後で、結果が出て初めて分かる。

それは判断を下した時点でそれが正しいかどうかなどという話は大した話ではないということだ。大切なのは自分が下した判断に従って、その後どうにかして結果を出すことだ。そのどうにかしての過程がの方が余程大切なのだ。

判断を下さずに、結果を得る努力をする方向を定めず、ただリスクが通り過ぎていくのを見過ごしているようなふるまいは求められていないのだ。

もっと良い判断があるのかもしれない。もっといいやり方があるのかもしれない。もしそうだったとしても、(勿論他者に相談する、助言を求めることはあっても)自分の判断に、自分のやり方に、そしてそれがもたらす結果の全てに責任を追って走り続けるのだ。

いっとき相手の期待値を満たせない可能性もあるかもしれない、想定外の動きで相手を驚かせる、怒らせる、失望させることもあるかもしれない。しかしそれは1つの過程に過ぎない。結果を出すまでその判断が正しいかどうかはわからない。その1つの過程は自分の行動の成否を決定づけない。

自分が結果に対してオーナーシップを持っている限り、アカウンタビリティを果たしながら、自分の出すべき結果に向けて、はみ出してでもなんでも走り続けるべきなのだ。そうして得られた結果は、結局期待を満たせるものでなかったとしても多くの学びをもたらしてくれる。それだけコミットする人間なのだという信頼を生み出してくれる。期待を満たせるものであったなら、もっとうまくやれたかもしれないという、次に生かせるであろう山のような反省をもたらしてくれる、実際の価値を相手へ届けてくれる。

クライアントの視線とプロとしてのこだわり – 5年前のプロジェクトから学ぶ

ブログの記事につけていたタグは移行できなかったので時間をみつけてはコツコツとつけ直している。過去のエントリーが1200近くあるので時間がかかる。しかしその過程で過去のエントリーを読んでいると忘れていた自分の学びを振り返ったり、思い出に触れたりとなかなか良い時間が過ごせたりする。

いくつも目にとまる中で、改めてここに残したいと思ったのがこのエントリーだった。

おわりとはじまりと

今でもこれが誰との、どんな場所での、どういう雰囲気での会話だったのか鮮明に思い出せる。今読んでも改めて自分の胸に刻みたいと思わせるのは自分が成長していないからだろうか。今彼とまたプロジェクトに臨むことがあったら、もっとインパクトのある、価値のある仕事ができるだろうか。

奇しくも今はこの時から5年が過ぎている。彼と同じ年齢になる。

これをきっかけに思い返せば、本当にたくさんの、素晴らしい方々のお世話になってここまでやってきた。その方々へ恩返しというのはおこがましいが、自分が新たに会う仲間であり、自分の後進でありへ返して行きたいと思う次第。

結果にこだわれ。結果さえ出せばいいとは考えるな。

仕事で第一義にこだわるべきは結果だ。過程ではない手段でもない。結果だ。

しかし結果さえ出せばいいという考え方は違う。結果を出すことにこだわっていたら自ずと手段にも配慮をする。チームの組み方もそうリレーションの築き方もそうコミュニケーションの取り方もそう。なぜなら一人で出せる結果、他人と関係のない結果はごく限られているからだ。こだわるべき結果は個人のパフォーマンスのみに依存するものではないからだ。世の中に出したいインパクトであり、ビジョンの実現であり、それは多くの人がいて初めて成り立つものだからだ。

一方で結果さえ出せばいいという考え方は個人のパフォーマンスに閉じた考え方であることが多い。往々にしてその考え方は個人を離れたところでの結果を損なう。自分のみにこだわり自分の好きにふるまいアウトプットをだしてもそれを引き継ぐ人がいないからだ。それを喜ぶ人がいないからだ。

自分が出したい結果が大きいほど、必要なものを考え、それらを大切にしなくてはならない。そして、自分の出したい結果が大きい程、必要なもの、大切にするべきものは案外多い。自分が結果を出したシーンを思い浮かべた時にそこに他人がひとりでもいればそれだけで大切にするべきものは自分だけではなくなる。