ビジョナリー・ピープル

ビジョナリー・ピープル
内容は後ほど。
10/05 00:33
ということだったが気がつくと時間が経ってしまっていた。はやい。
この本の中では”成功”というものの意味を世間一般に言われているものとは異なるものとして再定義し、その成功を掴み続けている人をビジョナリー・ピープルとして、3つの観点からみている。
世間一般に言われている成功とは、

1. 計画したもの、あるいは試みたものの成就
2. 華やかな成果、なかでも富、名声、権力の獲得
3. 計画されたとおりに完成したもの
4. 特に富、名声、権力を獲得できた記録のある者

これらに対して本当の成功とは、

個人的な充実感と変わらない人間関係を与えてくれる、そして自分たちが住んでいるこの世界で、自分にしかできない成果を挙げさせてくれる、そんな生活や仕事のこと

であるとしている。
そしてビジョナリー・ピープルをみる3つの観点が、

1. 意義
2. 思考スタイル
3. 行動スタイル

だ。
本の内容のサマリは省略するが、この本が良いのは上記3つの観点から”成功”を遂げている人々の人生の一部を垣間見ることができることにあると思う。彼らの生き方や考え方(まさに3つの観点)がそのまま自分の人生に活かせるとは思わないが、読み返し、自分の人生を想像するたびに改めて”自分の”人生をどうしたいのか自分に問いかけるきっかけになってくれるからだ。
そしてこの本を通して僕が感じたのは”自分の日常を深く味わうことの大切さ”だった。
ビジョナリー・ピープルと本の中で呼ばれている人々は誰しもが”強烈な経験”を経て自身の意義であり思考スタイルであり行動スタイルを確立している。強烈な経験とは往々にして苦しいものであることが多いようだ。人生における後天的な深い苦悩であったり、先天的なハンディであったり。
それらが彼らが”自分は自分だ。自分らしい生き方がある”と気づくきっかけになっており、またそうやって生きる道を見つけなくてはならない、結果として他人の当たり前とは異なる人生を生きる必要性を迫る存在となっている。
そういった経験を持たず、恵まれた環境で日々生きていると”自分らしい人生”というものに対する意識が希薄になる気がするのだ。
過去のBlogのエントリーの中で、自分らしさは確実に自分の過去であり現在に存在している。有無を考えるのではなく、それが何であるのかを考えることが大切なのだと書いたことがあったが、それなりに恵まれた環境は、それを深く考えるインセンティブを抑えてしまう気がするのだ。
それでも、成功というか、本当の幸せというものがビジョナリーな生き方にあると考えるのであれば、そういった恵まれた日常にあってもなおその”一般的にある程度”満たされている環境に甘えることなく、自分の意義を探し続け、見つけたのなら逃さないように掴み、向き合っていく必要がある。
だからきちんと自分の日常というものを、自分の感覚で味わっていかなくてはな、と思うのだ(それがしづらいことが問題だというところはあるのかもしれないが)。
そうやって自分の感覚を磨き、日々の経験をその感覚にしたがって選択し、咀嚼していくことで帰納的に自分の意義が見えてくることもあるだろうし、その過程で選択・咀嚼だなんて忘れてしまうような、情熱を傾けられる、それこそ”意義”に出会えるのではないだろうか。
自分の感覚を忘れて、世間が甘いといっているものを漫然と食べて甘い、苦いといってるものを苦いといって時間を重ねてしまっているうちは、この恵まれた環境の中で自分の本当の意義を見つけることは難しいのではないかと思うのだ。
と硬く考えても、意義がないと生きていけないわけじゃない。自分らしい人生を自覚できていなくても時間は流れるし事実として今を生きてる。日々の偶然も楽しく受容れていける楽観・ユーモアっていうのも大事だ(^^)

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