余裕がないときこそ相手を慮った方が良い

余裕がないときこそ人に接する時は一層相手のことを慮ったほうが良い。なぜならば、余裕があれば当無意識に普段からできている心遣いが、余裕がないときはできなくなっていることが多いから。礼を欠いていると感じられるコミュニケーションは往々にして自身の望む結果を遠ざけるから。そして、余裕がないとき程一層、遠回りをするわけには行かないから。

ふとしたきっかけで、過去の苦い経験や同僚の苦い経験を近くで見ていた経験を思い出した。余裕がないときにしてしまいがちな間違いを幾つか書いておきたい。例えばメールでのコミュニケーションにおいて。

全ての根幹にある考えは、

あなたに余裕があろうがなかろうが、どんな状況に置かれていようが、そんなものは相手には一切の関係がない

という点に尽きる。

1. 相手の置かれている環境を慮る言葉を添える

余裕がない中でメールを書いていると、相手がどのような立場に置かれているのか、どういう状況でそのメールを読むのか、といった点へ想像を巡らせる行為がまず省かれがちだ。なぜなら、自分が置かれている環境や自分が言いたいことはもうわかりきっていて一刻も早くメールを出して物事を進めたいと思っているのに対して、相手のことはわからないからだ。余裕がないときにわからないことへ想像をふくらませることはもどかしい気持ちに駆られる。

なのだけど、省かない方が良い。少なくとも、一言でも丁寧に添えられるだけの時間(数十秒から数分ではなかろうか)は割いたほうが良い。それがないと、その後でどれだけ相手へのメリットを語ったとしても、”要は自分の都合で話を早く進めたいから(とってつけたように)言ってるんだよね?”と感じられる可能性が高まる。これが本意ではないだろうし、そうでればこれほど不幸な誤解はないだろう。

2. 相手が決めることを勝手に決めて話を進めない

余裕がない中でメールを書いていると、段取りを丁寧に踏めなくなる。最短距離でゴールテープを切ろうとするあまり、普段以上にAssertiveにものを言いがちになる。挙句には、本来相手のYes / Noによってその後のやりとりが変わるところを、自分に望ましい答えを相手が出す前提でその先の話をしてしまう。なぜなら、メールのやりとりを続ける余裕がないからだ。自分が最終的に相手からほしいYes / Noであったり得たい情報であったりをもらうために、すべての内容をそのメールに盛り込み、最終的な点に至るまでは自分に望ましい答えを出す前提にしてしまう。そしてそうすることが良いというメリットでそれをサポートしてしまうのだ。

なのだけど、それはよした方が良い。ひとつそれをやった時点で、それ以降の内容を相手は否定的に読むもしくはもう読まないだろう。誰がそう答えたんだ?とまず思うだろうし、何よりそれ以降の内容は相手があなたにとって都合の良い答えを出した場合にしか意味を持たないことが書かれているからだ。

これも1と同様だ、どれだけ相手にとっての価値をあなたが丁寧に考え盛り込んでいたとしても、”結局用は自分に都合の良い結果が欲しいんでしょ?”と思われる可能性が高まる。そう思われるのが本意でないなら不幸な誤解だ。

3. アツさは礼を尽くした後に添える程度に

余裕がない中で(もしくはこれは自身の背負ったミッションに誇りを持っている場合にも当てはまる。そんな中で)メールを書いていると、ついそれを語りがちだ。余裕がないとき、そしてミッションに燃えているとき、人は自身の拠り所に普段以上に依存する。それが自分の背中を支えてくれる、押してくれるからだ。

問題は、それは(あなたが思うよりずっと)相手から冷静にみられるということだ。そして、相手は(貴方が思うよりずっとずっと)冷静にそのミッションを評価しているということだ。

まず前提として、そこで語っている内容と、そのメールを通じて相手が受けとる印象が一致している必要がある。なので、簡単に言えば、クライアントに尽くすというニュアンスのことがあったとしたら、あなたのメールの中でもあなたは相手に尽くしている必要がある(自分の余裕のなさを感じさせたり、自己都合で最短距離を走ろうとするのではなく)。自分たちが優秀な人材を擁する企業であるというニュアンスのことがあったとしたら、メールを通じてあなたが相手からして優秀な人材を擁するに足る人格を持っていると感じてもらう必要がある。といったように。

それが成り立ってはじめて、あなたのミッションでありは相手に受け入れられる。そうでなければ価値を持たないもしくはそれは真実ではないものとして相手に理解される。不幸な誤解だ。

 

それができたら苦労しない、というところなのだが。余裕がないときこそメールを送信する前に一息ついて、相手を慮った表現ができているか、相手に決めてもらうべき点を勝手に自分が決めていないか、そのメールの内容は相手に自分がミッションと重なる存在だと感じてもらえるか、一考したいところだ。

クライアントの視線とプロとしてのこだわり – 5年前のプロジェクトから学ぶ

ブログの記事につけていたタグは移行できなかったので時間をみつけてはコツコツとつけ直している。過去のエントリーが1200近くあるので時間がかかる。しかしその過程で過去のエントリーを読んでいると忘れていた自分の学びを振り返ったり、思い出に触れたりとなかなか良い時間が過ごせたりする。

いくつも目にとまる中で、改めてここに残したいと思ったのがこのエントリーだった。

おわりとはじまりと

今でもこれが誰との、どんな場所での、どういう雰囲気での会話だったのか鮮明に思い出せる。今読んでも改めて自分の胸に刻みたいと思わせるのは自分が成長していないからだろうか。今彼とまたプロジェクトに臨むことがあったら、もっとインパクトのある、価値のある仕事ができるだろうか。

奇しくも今はこの時から5年が過ぎている。彼と同じ年齢になる。

これをきっかけに思い返せば、本当にたくさんの、素晴らしい方々のお世話になってここまでやってきた。その方々へ恩返しというのはおこがましいが、自分が新たに会う仲間であり、自分の後進でありへ返して行きたいと思う次第。

9月からバルセロナのMBA、IESEへ入ることにしました。自分が留学準備の過程で得られたものを総括します。

openにする。この秋からバルセロナのMBA、IESEへ通う。昨日社内でもopenにした。4月にofferもらってからこれまで、本当に沢山の方に祝っていただき、叱咤激励のメッセージをいただいてきた。どれだけ感謝をしても足りない。一方で、一旦最後となる中国でのプロジェクトやVISAを始めとするいくつかの準備に集中したこと、また自身の至らなさから報告を遅くした方、十分にお世話になった感謝を伝えきれていない方がいると自覚している。時間が空くことになっても、感謝の意を伝えさせていただきたい。

以下に、自分が留学に向けて過ごした期間、そこから得られたものを振り返りたい。

準備には2-3年を要した。その期間に得られたことは多い。なぜなら自分にとって、留学準備期間では、日頃得られない3つの経験があったからだ。1つは決められた試験(TOEFL、GMAT)による自身の学習効率の定点観測、1つはEssayを練る過程で自分の人生をつぶさに振り返り、点と点をつなぎ、自分の物語を紡ぎあげること、1つは仕事と学習をバランスすることだった。

最近でこそ海外で働く機会を増やしているが、わずか2年前までは人生での海外滞在時間は3週間だった。大学時代のバックパックの旅行も含めてだ。仕事で英語を使うことはなかった、殊会話においては。

学習開始時の自分の英語力をスコアでみると、TOEIC830、初TOEFLのスコアは確か42。最終的には106(27 29 23 27)がベストスコアだった。各セクションのベストスコアを足せば113(30 29 24 30)になる。

この間、試験の度に、次に向けてRLSWのどれに、どういった方法で、どれだけの時間を投入するのかを考え、実行し、次の試験のスコアをみて、を繰り返す。これまで見えていなかった自身の英語における得て・不得手がわかってくるし、そもそも学習する上での適したスタイル・時間帯といったものまで見えてくる。過去の受験でこういったことは既に理解されている人は多いかもしれない。が、自分の場合は今回見えたことが多い。GMATの話しは割愛 ;p

コンサルタントとして生きるようになってからキャリアの観点ではプロジェクト毎に自分の価値を振り返り、どこが強みなのか、弱みなのか、成長に向けてどのようなアクションが必要なのかは整理し考えているつもりでいた。

しかしEssayを考えるに際してはより長い時間軸(生まれてから今まで)で、より広い視野(プライベートの、人としての、強み弱み嗜好)で自身の人生を振り返り、自分が本当に実現したいことを見出す。わかっているつもりのことも、言葉で表現しようとすると出てこない。自分で素晴らしいと思っていた経験も、文字にしてみると些細な事のように映る。本当に自分の人生はその程度のものだったのか、もっと適切に、ヴィヴィッドに、他の誰でもない世界にひとりだけの自分を表現できないのか。それをひたすらに考え続けた。

今考えると、それを通じて自分が手に入れたものは、Essayだけではなくて、心の静けさ、穏やかにして力強い覚悟であったと感じている。自分の人生を振り返り自分の物語を見出す活動は、自分のルーツを理解することに繋がる。瞬間瞬間に自分の頭をよぎる目標ではなく、自分の人生における行動に裏打ちされた自分の生きたい未来に光をあてることにつながる。

勿論これからも生きている限り変化はある、大きいチャレンジを目の前にしたら静けさだ力強い覚悟だなんて話はそっちのけになることも容易に想像がつく。それでも、この活動を経て、自分の内面は以前にもまして静かに、力強くなったと感じている。

仕事の学習をバランスすることは難しかった。精神的に。僕はコンサルタントという生き方は自分の100%をもってクライアントの成長に資することだと思っている。大袈裟かもしれない。それが体現できてるかといえばまだあまりに未熟だ。それでも志すところはこれだ。なので、留学準備の過程で、浮気をしているような感覚に囚われることが多々あった。浮気したことないのだけど。もう一度言っておこう。僕は、浮気を、したことはない、のだけど。きっと浮気というのはこういう感覚なのだろうな、という想定に過ぎないのだけど。想定に過ぎない、のだけど。

物理的に時間をクライアントに対してではなく自身の学習へ割くわけだから、その時間をクライアントに対して投じればもっと価値が出せるのではないかと考えることが多々あった。罪悪感を持っているときに自分の”あら”を見つけることは容易い。この仕事を続けるべきかどうかを考えた瞬間も少しだけあった。

クライアントとのエンゲージメントがあり、その中でのアウトプットがあり、それを出すことが目的であり、そのために自分がどれだけ参画するべきかを決め仕事をしている。1日24時間使うかどうかは自分の意志だし、もっと言えば自分のパフォーマンスが高ければ不要だろう。使う時間の長さと価値だって正比例の関係にはないだろう。と頭では考えていた。が、気持ちはそれに従わなかった。

最終的に自分がとった行動はシンプルだったと思う。四の五の言わずやるべきことは全部やる、やるべきでないことは絶対にやらない。という意思決定。そして自分の仕事は自分でつくる、という意思決定だ。

何度も自分の頭の中に登場するし、ブログでもtwitterでも書いた記憶があるが、やはり正念場では腹を据えてど真ん中に突っ込むのがいいと思う。そして、やるべきことに集中する、自分がやるべきでないと考えることは絶対にやらない。それが最もしやすい環境は自分が仕事をつくり、自分がそれをリードすることだ。

開き直りだとも思っている。自分が勝手に覚悟を決めてつくる仕事=クライアントに対する最大貢献なのか?という問いは頭の中に常にあった。クライアントに尽くすと言いながら自分都合を優先してるじゃないかという考えがよぎったこともあった。それでもその時は、これが自分の全力だ、自分は逃げない・腰を引かない、なんとかする、というコミットメント(なのだろうか)のもとにひたすらに自分の信じる道を進んだ。

勿論独りよがりではなくて、クライアントと共に。

ベストかどうか、自分の軌跡を振り返れば考えるところはいくらでもある。それでもきっと良かったと思いたい。

やるべきことは全てやるべきだし、やるべきでないと考えるものは、その限り絶対にしない。当たり前なのだけど、それを行動しきる大切さを身をもって学んだ。

最後に、この過程で得られた最大の気づきは、自分独りでできることはあまりに限られているということ、そして無私の心で全力で何事かに当たっている限り、いざとなれば絶対に助けてくれる誰かが現れる、ということだ。

この数年を振り返ると、自分一人で成し遂げられたと言えるものはない。これまで書いた内容と矛盾するかもしれないが、どれだけ覚悟を固くして深夜に家に帰りそこからその日の学習終えようとしても寝てしまうことがある。プロジェクトをマネージャとして3つ持ちながら走り続けて時には”留学準備”という言葉さえ頭から消えてしまうこともあった。

そんな時に自分を奮い立たせてくれるのは他でもない、同じく留学を志す方々の頑張りだった。他人は他人、自分は自分、と思っていても、自分と同様に苦しい環境でもがきながらも志を折らずにいる仲間の存在は本当に大きかった。そして勿論、プロジェクトの中で自分が留学をしようとしているという話をした時に、それを応援してくれて、プロジェクトを共に走ってくれたコンサルタント仲間の存在も大きい。自分のペースメークをして、Essayに限らず仕事の悩みを聞いてくださったカウンセラーの存在だってあるし、一足先に留学している仲間の活躍だってある。

自分独りでは志を立て続けることさえままならないということを知った。
そして、その気持は自分が驕ることを戒め、謙虚に、真摯に周りの方々へ接するよう自分を仕向けてくれた。クライアントの成長に100%資するのだ、いざとなったら自分でなんとかするのだという根拠のないコミットメントと自信、一方で独りでできることは限られていて、仲間がいてはじめて成し遂げられる仕事に向かっているという自分の実力不足の自覚と謙虚さが内側に同居した状態だったと思う。

そうやっていると、本当にありがたいことに、ピンチに陥った時に手を差し伸べてくれる、肩を貸してくれる方というのがいつも現れてくださった。

それをあてにすることは許されないし、他責で物事を考えはしない。ひたすら感謝だ。恩返しができる自分になりたいと望むし、自分も自分と同じような状況に置かれている人がいた時に手を差し伸べられる強さを持ちたいと望む。

強くなければ自分が望む人生を生きられないし、自分が力になりたいと思う相手にそうすることさえ叶わない。

これから先の展望はまた整理をしていきたい。ただ、いずれにしても僕は強くなりたい。

Consulting as a profession

McKinsey’s Marvin Bower: Vision, Leadership, and the Creation of Management Consultingを読んでいる。まだ読み途中なのだけど思わず頷き、感動を覚える言葉があったのでここに引用したい。今と昔では異をなす部分もある。自身の属する組織に応じて変えるべき点もある。それでも、自分がコンサルタントとして存在する以上は、僕はこの考え方を手放さない。

We are what we speak–it defines us–it is our image. We don’t have customers, we have clients. We don’t serve within an industry, we are a profession. We are not a company, we are not a business. We are a firm. We don’t have employees, we have firm members and colleagues who have individual dignity. We don’t have business plans, we have aspirations. We don’t have rules, we have values. We hare management consultants only. We are not managers, promoters, or constructors. And we are no longer executive recruiters. The big development in concentrating our efforts in our own field came in 1939 when we severed our affiliations with Scovell, Wellington & Company, then exclusively an auditing firm. At that time, we gave up calling ourselves “management engineers” and pioneered in using the designation “management consultants.” Over the years, since 1939, we have resisted various excursions into side lines; and our convictions in this aspect of our firm personality are deep and well crystallized. // Furthermore, the professional approach to attracting clients helps get action on our recommendations. If we are asked to help (and we make proper arrangements), then the client feels some responsibility to aid us in our work and to act on our recommendations. There is a psychological but real difference in attitude between the client who has asked for our help and the one who has been “sold” and hence has a “show-me” attitude.

遅ればせながら2011振り返りつつ

年が明け、2012年が始まりました。昨年お世話になりました皆様、本年からお世話になるであろう皆様、どうぞよろしくお願い致します。
気がつけば昨年12月はブログを更新することもなく過ぎた。ブログの優先順位が下がっていた。他にやりたいこと/やらねばならぬことが多かったため。今は実家で短期放牧中につきこのタイミングで昨年を振り返る。せっかくした経験、振り返らねばもったいない。まとめればtweetのとおりで、

今年は今の自分の限界を知ることができ、そんな自分に気づきと学びを与え、一歩高みに進めてくださる方々と出会えた一年でした。心から感謝致します。素晴らしい一年でした。 しかしまだまだ道半ば。

でした。(今年は昨年へ読み替えください)
仕事と学習の両面において自身の今の限界を知ることができた。
まず仕事に関して。昨年は5つのプロジェクトでマネージャを務めた。うち2つは課題仮説構築、プロジェクト設計、そして提案からプロジェクト実施までをリードした。全てをひとりでやれたという認識はない、支えてくださる方々あっての自分のパフォーマンスだ。リードするということ、マネージャを務めるということは、プロセスで誰がどう関係しても、結果責任を自分が負うということだ。その前提でプロセスにおいても意思決定をしていくということだ。
詳細は割愛するが、うまくできたこともあればそうでないところもある。跳び上がるほど嬉しい経験もした、涙がにじむほど悔しい経験もした。しかしそれらが自分の今の限界を浮かび上がらせてくれたと考えている。
結果、自分の場合は開き直りつつある。おそらく良い意味で。これが今の自分の全力であり責任を負うのは自分だという開き直りというか覚悟と言うか、だ。この感覚は自分に冷静さ、素直さ、そして謙虚さをくれる。
また、今年は日本に限らず多くの国、特に新興国のメンバーと共に仕事に取り組んだ。ざっと数えて8-9カ国。日本では一部の若手コンサルタントのアドバイザーも務めた。海外の仲間は上下関係なく議論でき、率直な意見・素晴らしい知見をもらい本当に助けられた。グローバルでの組織の力学を学ぶ機会にもなった。若者からも学びは多かった。一言で言えば、初心を思い出させてもらった。得難い経験であり感謝する。
次に学習に関して。詳細は割愛するがまだ目標は達成していない。仕事とは別に3桁時間(ずいぶん広い捉え方だが)を投入した。それでもまだ目標達成には至っていない。過去の話であり、この結果が今の自分の限界と捉えられる。この経験はただ学習の過程で知識・スキルを得られるにとどまらず、効率的に学習するための方策を考えるきっかけをくれた。また、自分の生活のリズムであり集中力でありをコントロールする大切さを知ることができた。
こうしてしることができた今の自分の限界であり、限界までやったという認識は、自分がさらに高みに行くための地盤であるとともに、どうやってそこへたどり着くかのヒントをくれる存在だ。
2012をどう過ごすかという話は今後のエントリーに譲る。遅ればせながら、簡単に昨年の総括をした。
皆様、本年も何卒どうぞよろしくお願い致します ;) !!#写真は大晦日の夕焼けですm(_ _)m