下呂温泉での忘年会は最高に楽しいものだった(^^)結婚する人、新たな家族を得た人が増えても、こうして集まってみれば本当に何も変わらない。強いていえば若干一部体型が変わりだしたような気がする程度だろうか(自分はまだぎりぎりセーフだと思っているがこの時期油断大敵)。
仕事であれなんであれ、所属するコミュニティが増えてその中での役割が変わる中で、自覚の有無に関わらず変化を遂げている。その中で、自分を変えきれず、もしくは変えることを望まずに結果として何かしらの仮面をかぶっている時があるのだと思う。全て自覚してできているわけではないからなんとなくそんな気がする程度だけど。
それがこうして友達で集まってみると仮面だったりなんだったりが全て取り払われて、自分らしいと思える自分になることができているように思える。
時間を重ねて自分をプロットする軸が増えていけばいくほど、こうした自分の原点に近い部分を構成しているつながりというのはよりいっそう大切にしていきたいと思う(^^)

カテゴリー: Benibana
忘年会へ
今日は学生時代からつながっている仲間で忘年会。一路下呂温泉へ(^^)
それぞれ忙しくても年に1度は集まるこのメンバー。いつになっても相変わらずなのだけどそれが嬉しく感じる。
楽しみだ。
たいせつなもの
昨日の夜は、中学校来の親友夫婦のおうちにお世話になる。
そこにはもう2歳とちょっとになる男の子がいる。会うたびに大きくなっていてその成長の早さと時間が経つスピードの速さに驚かされる。昔は眠っているかミルクを飲んでいるかくらいのものだったのに、今では話すこともできるし、人見知りもするし、笑う・泣くではなく言葉で主張することができる。スポンジのように何でもかんでも吸収する彼は、見ていて飽きないし相手をしていて飽きない。何をするにしても自然と笑みがこぼれる。僕だけに限らずみんな。
ただ、何をしていても笑って相手をしてしまう僕らとは違って、お母さんはちゃんと躾けるべきところは躾けていた。さすが。
彼を寝かしつけてからは昔話やら最近の話やら、仕事の話やら結婚・育児の話やら何やら話題が尽きない。小学校中学校時代の話になると、周りから”どんな学校だったのそれ??”と聞かれるくらいに笑いのネタが尽きない。それが普通だと思って生きてきた僕らはなんともこたえられないのだけど。
ビールを飲みながら話し続けて結局寝たのは4時頃だったろうか。前にブログに書いたように、田舎に帰ってきて空を見て初めて都会の空が狭かったりその中で自分が少し窮屈に感じる部分があったことを自覚するように、昔の友達と話してみると普段の自分が忘れている・忘れかけていることに気づくことができて嬉しい。往々にして当たり前のことなんだけど、なんだけど考えすぎて見失っているような、そんなこと(どんなことだ?)。
そして、友達との会話から大切な気づきを得られると思いながら、ふとみる彼の表情やしぐさ、たどたどしい言葉は、会話では得られない・言葉からは直接得られないような何か大切なものを教えてくれているような気がした。


自分らしく
金曜日は親友が東京へ出張に来ていたので、東京の友達も含めて銀座のbarで飲む。中学から大学まで共にしてきており、気心が知れている。それぞれの仕事の話やプライベートの話をする。僕を含めて3人で飲んでいたが、僕を除く2人は既婚。一人はまもなく2児の、一人はまもなく一児の父親となる。
最近色々とあるので相談というか現状というかを話す。2人の話を聞いて気づいたのだけど、みな基本的に同じことをいってくれる。簡単に言うと”自分らしくやればいいんだよ”ということ。
最近のような生活をしていると、何が自分らしいのかがわからなくなるときがある。違和感を感じながらもそれを解消する努力をせずにそれを許容しようとしているときがある。
自分らしさって生きていくうえでupdateされていくものだと思うし、人は多かれ少なかれ変わっていくものだと思う。ただ、長く濃く同じ時間を過ごしてきた友達と話をしていると、改めて”自分らしさ”というものを思い出す。”ああ、こんな感じだったな”と。そしてその自分と重なることも、重ならずにいることも全てが受容れられる居場所の存在を思い出す。何も意識することなく、何の違和感も感じずに自分として存在することができる居場所だ。
そんなことを思いつつ散々飲み、ひとり友達を送ってからカラオケへ。散々飲んで歌って深夜と明け方の間くらいの時間帯に家に帰る。
相変わらずな自分たちに我ながらあきれつつも、こういう居場所があることを幸せに思った。これからも大切にしていきたいと思う。
自分のことば
僕は普段口数が少なく、人を見ていたり人の話を聞くのが好きだ。だからなのか、人の言葉だったり表情や動きの不自然さだったり微妙な変化には結構気付くことができていると思う(分野によっては超鈍感だったりしますが(^^;))
その中で最近気付き考えるのは、人が発する言葉が他の受け売りか、その人自身のものかということについて。
往々にして他の受け売りの言葉は、表面上うなずくだけでどこかへ流れていってしまうことが多く、その人自身の言葉はClientであり聞き手の頭であり心でありに深く残る事が多い。
上記について1.環境(相手の心情を踏まえたタイミングや雰囲気)、2. バーバル、3. ノンバーバルに分けて考えてみると、受け売りの言葉は1や3が不自然であり2だけを使っていることが多く、その人自身から発せられている言葉は1、2、3のすべて、もしくは2、3を適切に使っていることが多いように見える。
受け売りの言葉はバーバルだけ、口から発せられる文字の並びだけがしっかりしたものである(しっかりしているからこそその言葉を頭に残し、使っているのだと思うが)。その素晴らしい言葉を言うことを意識してしまっていると、環境の解釈は相手の心情ではなく自分の心情の解釈となり、タイミングも相手が求めるタイミングではなく自分が言えるタイミングをセンスするようになる。そして場全体の雰囲気を読めるほどアンテナをふわっと広くはることができなくなる。
結果表面上素晴らしい言葉は相手のタイミングをはずし、またノンバーバルのコミュニケーションと折り合うことなくさらりと過ぎていってしまう。
一方で自分の言葉、自分がその時々に紡ぎ、相手へ伝える言葉は異なる。なぜその言葉を紡ぐのかの裏には相手の心情やその場の雰囲気が存在し、またその紡ぎだした言葉を相手へ届ける際には、相手への共感やその言葉に込めた想いがノンバーバルのコミュニケーションを自然とつくりだす。
結果、言葉を支える相手の心情の理解はすなわち相手が自分の気持ちを理解されたと感じ、言葉を受けいれる準備ができた状態に重なり、それに対して共感や伝えたい熱意(ノンバーバルへ反映)を備えた言葉は相手の心であり頭でありに深くささる。
普段コンサルタントとして様々な人とコミュニケーションする中で、人から学ぶ際にはその人が発した言葉だけでなくその環境、なぜその言葉を使ったのかという意図、そしてその言葉を発する際のノンバーバルでのメッセージもしっかりと学んでいきたいし、人に何かを伝える際には、常に自分のことば、その人にメッセージを伝えるために紡いだ言葉を使っていたいと思う。
単純に考えれば自分がどんな言葉を発するかではなく相手がどう感じるかの問題であるはずだし、1と3を間違えなければどこの言葉を引っ張ってきてもいいのかもしれない。そして、自分へのこだわりに価値はなく、相手の求めるものへこそ第一義にこだわるべきなのかもしれない。おそらくそうだと思う。
上記を忘れず、少なくとも自覚している上では相手に対して常に自分で紡いだ言葉を伝えていきたいと思う。自分という唯一の存在であるのだから。