Ignite the motivation

備忘録。
最近はインドをはじめ海外の同僚と仕事を共にする事が多い。そんな中で、何度も、彼等が目を輝かせる瞬間、彼等のモチベーションでありパフォーマンスでありがぐっと伸びる瞬間を目の当たりにしてきた。何も意識せずにいたことだけど、自分が何をしてきたのか、思い当たるふしをメモとして残しておきたい。
■相手のひととなりを知る
僕は人に興味がある。なので仕事に限らず(むしろ仕事以外の分野の)質問をいつもしている。仕事であればこれまでどんなキャリアを歩んできたのか、転換期があれば、それはなぜ訪れたのか、そしてなぜその選択をしたのか、その結果どうなったのか、それをどう感じているのか。いい意味/よくない意味で印象深い仕事は何だったのか、それはなぜか。印象的な上司・部下はいたのか、それはなぜか、等々。全てを自分が質問したわけではない。相手から話してくれることが多い。しかし仕事を共にしていると、相手の、ここに書いたような質問の答えを掴んでいる。
僕は写真が趣味なのでカメラを持ち歩いている。そうするとカメラについてつっこまれる。そしたら相手の趣味の話になる、家族の話になる、生まれた土地や生い立ちの話になる、国の特徴の話になる等々、全てがカメラ起点ではないけど話しているうちに、仕事以外でも話題は広がる、頭にはいってくる。
そんな話をしていると、自然と相手の性格を掴む、どういう姿勢で接するのが相手にとって心地良いのか(どういう話の流れで饒舌になるとかならないとか、笑顔になるとか眉間にシワが寄るとか色々)がわかる。勿論新しい反応があるたびにアップデートされていくが。
■目の前の仕事に直接関係のない不満をみつける
相手によるが、これまで仕事をしてきた海外の同僚の多くはネガティブな言葉を使わない。自然と何事もポジティブに表現するように感じる。しかしその中にあっても表情が曇るときもあれば(間接的に不満を教えてくれるときもあれば)、とても慎重に(あくまで個人の意見だけど、君と僕だけの間の話だけど等)本音を打ち明けてくれる時がある(直接教えてくれる時がある)。多くの人に共通だと思うが、そういった、普段と違う相手の側面を見ると否が応にもそれは自分の中に、他の情報よりも深く刻まれる。きちんと理解するために丁寧に質問をしたくなるし、共感を示したくなる。それは素直にそうする。そして最後まで話を聞き続ける。
目前の仕事に直接関係のない不満をみつける、と書いたのは、直接関係のある話は解決しても目を輝かせる瞬間は往々にして訪れないからだ(当たり前ながら、ありがたく理解し、解決しなくてはならないが)。
■目の前の仕事に(少しでも)不満を解消できそうなアレンジを加える
少しでもいい、相手がいだいている不満を少しでも解消するようなアレンジを目の前の仕事に加える。例えば、”これまでずっと現場の仕事をしてきた、でも最近は机上でのリサーチ・分析ばかりだ。現場にいたときはもっと事前に情報収集をして、分析して、それからアクションだと思っていたのだけど、机上でのリサーチ・分析に偏ると、今度はやはりファクトは現場にある、現場を知らずして分析もなにもあったものじゃないと思えてくる” という不満を相手が抱えていたら、現場を感じられるアレンジを少し加える。インタビューのタスクがあったらそこに引っ張り出すとか、コンシューマー向けの話をしているときであれば、ランチの時に外に出て、プロジェクトに直接関係なくても類似の店舗なりにぶらっとはいって、意見を仰ぐとか。
不満の裏側にあるやりたいことと、自分に求められたことが少しでもかすると、その瞬間にヤル気に火がつくことが多いのだ。
■目を輝かせている相手との会話を心から楽しみ、感謝する
そしてヤル気に火がついた相手との会話を楽しむ。実際に圧倒的に楽しい。あいての熱でありワクワクがひしひしと伝わってくるし、それは自分に伝染することが多い。相手がそうなることは嬉しいことこの上ないと思う。素直に相手に感謝する。多くの場合、一度上記のように火がついた人間は、これまで不満をいだいていた仕事のパフォーマンスも一気に上げるし、感謝する点はいくらでも見つかる。
自分を省みる。それ程の不満を現状に対して抱くことができているだろうか。本当に満足している状態が上記のように目を輝かせた状態なのであれば、普段の自分の眼は常に輝いているだろうか。満足を忘れ、不満を忘れ、ただ可も不可もない中で生きているだけになっていないだろうか。
散らかった日本語になってしまったが以上、備忘録。

久しぶりの再会

時間が前後する。
金曜は2年程前にお世話になった方がフランスから日本へ帰国したとのことで、その飲み会に参加させてもらう。半年程度、タフなプロジェクトでご一緒させてもらい、その際にとてもお世話になっていた。パワフルでありチャーミングであり、勿論頭もキレる。一緒に仕事をするのが楽しい人だ。
お互い仕事を共にした当時とは大なり小なり異なる領域で活動しているのだけど、よくある話で、一度濃い時間を共にした人とは、久しぶりに再開してもその時のリレーションでありキャラクターでありに一瞬で戻る。
こういう場で仕事の話はなしよ~っと周りをたしなめながら、真剣に仕事の話をぶつけられた時には思い切り真剣に打ち返している姿が、その方らしくて、とても微笑ましかった。
そのエネルギーに触れて、負けていられないと、気を引き締めた。
周りの人の力をレバレッジしてアウトプットを出さなくてはならない立場(マネージャであるとか)に立つ人間は、意図的であってもそうでなくても、周りが一緒に働きたくなるキャラクターであることが求められるのだなと感じた。そしてそうして人を惹きつけ、皆で大きな成果を出し続けられる人こそが、企業の中で上にいくべきであると思った。
#その時に食べた焼肉は美味しかった。

新人研修とのつきあい方

今週は2011年に社会人になられた方々と会話をする機会があった。新たな組織に所属するに際して心にとどめておきたいことを考えていた。
おそらく大半が社会人としての経験なく、生まれて初めての就職活動を経て、それぞれの企業に所属することになっていると思う。その企業が自分にとって最適であるという可能性は多くはない。今というスナップショットをみてもそうだろうし、時間が流れれば自分も変わるし組織も変わるのだし。
今は自分が所属する会社に関しても、社会人としての自分に関しても無知であると思う。それは武器であり、面白みでありにもなる。一方で仕事を共にする仲間であり、仕事で相手になるクライアントでありは社会人の経験も豊富であるがゆえ、そこと噛みあうための社会人としての素養であり、プロトコルでありを学ぶ必要がある。でないと、せっかく魅力的であるはずの個人も使いものにならない。噛み合わないんだから。
ということで、多くの新社会人は、入社式を終えて早々に、上記を学ぶための研修に入る。勿論その期間の長短でありOn or Off JT等学ぶ形式でありは企業によって異なると思う。エグゼクティブの面々の話を聴くこともあれば、その会社でくらしていくためのオリエンテーションもあれば、マナー研修もあれば、自社の歴史や存在意義についての講義があったり、製品・サービスに関する講義があったり、経営戦略・マーケティング・営業・ロジカルシンキング・資料の作り方云々といった研修があったりするんだと想像する。徹夜することもあれば、研修にして涙することもあるんだろうおそらく。
そんな過程に入れば、すぐにでもその組織を理解し始め、それを基準にして自分を理解し始め、そこにFit / Gapがあることに気づき始めると思う。これこそ自分が求めていたことだ!と思える点もあれば、こんなんじゃなかった、なにこれつまんないんだけど、と思える点もあるだろう。
いずれにしても、自身が就職活動のときに志望動機として掲げていたことや、企業に対するイメージはおそらく浅いので、これこそ!というポジティブな内容より、解釈に余地がある内容、ないしはネガティブに解釈したくなる内容が多くなるのではないかと考える。当初の(浅い)イメージに対して強い憧れというか妄想というか、を強く持っていればいるほどネガティブに解釈したくなる内容が多くなるのではないかと考える。
例えば、自分は戦略コンサルタントになって、顧客企業のトップマネジメントとその企業の戦略について議論して、新たな方向性を示してその会社を育てるのだ!と一心に望んでファームに入り、初期の研修でパワーポイントやエクセルの使い方とかを1-2時間座学したりすると”こんなはずじゃ・・・”とか”こんなんでトップマネジメントと議論できるようになれるわけがない、無意味だ”と思ったりするのかもしれない。
ここで考えるべきことは2つだ。

1. 本当に無意味なのか
2. であれば”具体的に”何を学ぶことが意味をもち、それをどう実現するのか

1. 本当に無意味なのか
本当に意味が無いんだろうか。自身が就職活動の中で思い描いたシーンにパワーポイントを使って資料を作っているシーンも、エクセルで表計算している姿もなかった。であればそれは意味が無いんだろうか。その思い描いていた晴れ舞台に立つ前後に想像をふくらませると、トップマネジメントと会話するステージに立つためには彼に話す価値があると思わせる何かを持っている必要があり、それは例えば何かしらのプレゼンテーションであったりレポートを出すことであったりしないだろうか。そのプレゼンテーションの表現手段としてパワーポイントがあったり、そのなかのメッセージをサポートする数字を導きだすのにエクセルであったりは存在しないだろうか。顧客企業が自分たちで解けない課題を、限られた時間の中で解き、共有する必要があるタフな環境で、パワーポイントやエクセルを素早く使えることは役立たないだろうか。
資料はエディタがつくるものだとしても、何をインプットして作ってもらうんだろうか。インプットするチャートイメージを具体的に描けなければエディタにモノを頼むことさえできないのではないか。であればそのスキルを養う手段の1つとしてもパワーポイントを扱えるようになる価値はあるんじゃないだろうか。
エクセルはメンバーに分析をさせればいい。しかし自分はそのメンバーにさえまだなれる力がない存在ではなかったか。むしろ自分がエクセルをまわして、プロジェクトマネージャでありパートナーでありがトップマネジメントと会話する土台を築き上げねばならないのではないか。それとも彼等以上に、自分はトップマネジメントと会話する価値のある人間だっただろうか。
本当に意味が無いんだろうか。
と、長々と書いたけど既に使えます、なんて話は往々にしてある(パワーポイントとかエクセルだからそうだけど、他の研修で何を学ぶにしても上記思考のうえで意味の有無を判断する必要がある)。
2. であれば”具体的に”何を学ぶことが意味をもち、それをどう実現するのか
意味が無いと判断した対象と同じレベルの具体性を持って、何を学ぶことが意味をもつんだろうか。それが今目の前の研修と異なる内容なら、自分はそれをどうやって学ぶのか。研修の意味が無いとわかったとはいえ、そこにいる以上同じ時間は過ぎていく。それを意味が無いもの、つまらないもの、としてそのまま数時間過ごしてしまうのはそれこそ本当に意味が無い。その時間の価値をいかにして上げようか。
話がそれるが、無意味だと判断した研修が、どうなっていれば意味ある研修になるのか、それを考えるというのは価値がある。往々にしてネガティブな判断は直感的に下せてしまうことが多いが、ポジティブな判断であり提言でありを考えるというのは難しい。誰(どういったスペックの人間)のための研修にする必要があるのか?彼等にとって意味のあるコンテンツとはなにか?それを体得してもらうための手段(研修の形式)とはなにか?それは1-2時間1セットで終わるものなのかそれとも複数回に分けた方が良いのか?それぞれについてなぜそう言えるのか?等。会社から与えられるもの=正解ではない、会社もどうすれば(制約の中で)自分たちが手に入れた新たな才能を早く大きく伸ばせるか試行錯誤している。そこに対して提言することは相手にとっても嬉しいことであるはずだし、このプロセスで、多くの場合必要となる考える力を鍛えられる。
で、具体的に何を学ぶことが意味を持つのか、それをどう実現するのか。”具体的に”というところが重要だ。
経営戦略を学ぶ必要があると思ったら、経営戦略ってなんだっけ?ということを考える。また、前段に書いた内容から続けると、トップマネジメントとディスカッションして価値を出すためだけど、トップマネジメントって経営戦略知らないんだっけ?パートナーやこれから一緒に仕事をする諸コンサルタントの方々も知らないんだっけ?で、自分がそれを知れば価値だせるんだっけ?そもそも何が価値なんだっけ?で、自分にしかだせない価値ってなんだっけ?等々。
何か1つを学べばいきなり理想と重なれるなんてことはない。学ぶだけで理想と重なるなんてこともない。とはいえ、常に、自分は具体的に何を学ぶべきなのかを考えることは、自分がなにものになりたいのかを考えることにつながる。自分に何が足りないのか(弱みなのか)を自覚することにつながる。自分に何が足りているのか(強みなのか)を自覚することにつながる。
自分の妄想が正解だと思い込まず、会社から与えられるものが正解だとも盲信せず、継続して両者の具体化理解に努めながら流れ続ける時間の有効な使い道を考える。そのスタンスが、特に新しい社会・組織にはいった段階では重要であると考えた次第。

選択する力。選択への責任。自分の範囲。

今こうした事態にあって頭の中に改めてあるのは、レスポンス・アビリティ、レスポンシビリティ。外からいかなるインプットを得ても、それに対する自分のレスポンスを選択する能力は自分にあるということ。その自分のレスポンスの責任は自分にあるということ。
そして何事においても自分の範囲があるということ。コントロールできないこと、直接コントロールできなくてもなにかしらの影響を及ぼせること、自分でコントロールできること。
今こうした事態にあって、いつもより丁寧に上記を考え、自分の中に刻んでおく必要がある。
いくつもの情報に触れられる中で、自分は何を選択して受け入れるのか。そしてその結果何をレスポンスするのか。情報に流されて混乱することも、情報の矛盾を探して誰かを責めることも自分の選択であり自分の責任。自分がコントロールできない範囲の情報はそれとして、自分が影響を及ぼせる範囲、直接コントロールできる範囲に集中して、その影響力でありコントロールを行使するのも自分の選択であり自分の責任。
ここを曖昧なままにしていては、人によっては多くの情報にひたすれ触れ続けることで、そして起こった出来事の大きさの前に自分の無力さを責めることで、心を消耗させてしまうことが起こりやすい状況にあるようにふと思えたので。

仕事は楽しく真剣に

さて。少々慌しい日々を送る中で気づいたこと。仕事は楽しんだ方がいい。そして真剣にやった方がいい。
文字を見ると当たり前じゃん!で片付きそうだけど、一方でその違いを感じる経験をしている人も多いのではないだろうか。見ているこっちがわくわくするくらい仕事を楽しんでいる人と楽しくなさそうに仕事をしている人。自分を反省したくなるくらいに真剣にひたむきに仕事と向き合っている人と、なんとなくで仕事をしている人。
自分を省みると、仕事によるというのが正直なところ。楽しい仕事もあればそうでない仕事もある。自然と真剣に自分のすべてをぶつけたくなる仕事もあればそうでない仕事もある。
でもそれではいけない。自分がやると決めたことはとことん楽しんだほうがいいし、とことん真剣にぶつかった方がいい。必ずしもそのスタンスがよい結果をもたらすとは言い切れないが、なんとなく楽しくなく、なんとなく真剣にもならずに取り組む仕事とは大きく異なる。
仕事を、楽しく真剣にやることは、自信へつながる、成長の傾きをあげる、人を巻き込みより大きい成果をえられる。そして楽しい(楽しんでいるのだから当たり前だが)。
仕事を、楽しくないけど真剣に取り組むことは、その真剣さは人に影響を与えることもあるし、自分の成長も大きくなる。ただ、人を心からわくわくさせて巻き込むことはできないし、場合によっては、排他的になり、他人との関係にひずみをうむこともある。そして楽しくない(当たり前だが)。
仕事を、楽しんでいるけど不真面目にやることは、楽しい(当り(ry)。楽しいから興味を持つ人を増やし巻き込むことができる。ただ一方で楽しさだけを目的に集まるケースが多く、困難にぶつかったとき、なにやら楽しくなさそうだという雰囲気がでてきたとき簡単にくじけてしまう。不真面目に取り組んだ仕事は、結果が出せればよいがそうでない場合自分の自信にはならない。自分が真剣に取り組んでいなかったということは他人以上に自分がわかっているのだし。それで結果がでなくてどうして自信を持つことができるだろうか。
仕事を、楽しんでもいないし真剣にもやっていないケース。楽しくない。自信につながりにくい。周りから見ても手を貸すなり自分も参加したいと思わせる理由がない。面白そうでもないし、当の本人は真剣でもない。”何でやってるの?やめればいいのに”という反応を得るケースが多い。それでもやらねばならぬという事由がある場合には理解もしくは同情を得る可能性はある。そこから他人を巻き込めるケースもあるが、やはり巻き込まれる人もその動機は仕方ない・かわいそうというところにあるわけで、その人のパフォーマンスを最大化することは難しい。
仕事を楽しむ、真剣に取り組む、その責任は個人にある。どうにも楽しみ方を見いだせない、真剣に取り組む価値が見いだせない、そういった仕事はしてはいけない。その仕事に自分のかけがえのない人生の一部を使うことはあまりに勿体無い。それをせずして組織からの期待にこたえられない、義務を果たせないのなら組織を変えるか遷るのが良い。
とふと思った。自戒も込めて。