相手の解釈はシンプルがいい

人は面白いもので相手からのインプットを解釈するのに様々な要素を加味する。インプット時のニュアンス・立ち振る舞い、相手と自分との遠近、社会的地位の高低、好き嫌い、普段の仕事の出来不出来etc…。
ただ、相手のインプットを解釈するときには上記のような要素の影響はそぎおとして、シンプルにするのが良い(話の中身自体のコンテクストを読まないというのとは違う)。特にネガティブに働く要素。インプットの信頼性を下げるように働く要素は排除する(我慢するのとは違う)。
コミュニケーション上、相手がメッセージしていない部分をネガティブに捉えてもメリットはない。それをその場のコミュニケーションに織り込むことはコミュニケーションを大きく阻害する。自分自身の感情を乱す。相手とのリレーションを崩す。
シンプルにあるべし。

ディスカッションの質

今のチームは定期的に集まって勉強会をしている。テーマは色々あるのだけど、それぞれの講師がそれぞれの分野のプロフェッショナルだし集まる人間もコンサルタントで日々プロジェクトで格闘してる集団なのでとても面白い。
ディープな内容になってくると理解に少々の時間を要することもあるが基本的に全員が理解・レスポンスが早い。そして当たり前だけどそれぞれの意見にはそれぞれのロジックが通っていて前提に関する議論であり、その置き方に関する議論であり、勿論ロジックそのものの議論、ファクトの解釈の仕方の議論、そもそものケースに関する議論、というように盛り上がるポイントは無数にある。
そんな中で切れるのはやはりパートナーだったりするのだけど、彼がまた面白い。切れ味や自分の意見におけるケースの解釈の仕方、前提の置き方、ロジックの組み立て方、いずれもシンプルに鋭いところをついているのだけど、他人の意見に対するリアクションがしなやかなのだ。
ディスカッションのレベルを3つに分けると大体次の3つになる。
・相手の話が構造的に理解できないし、自分の意見を構造的に話せない
・相手の意見は構造的に理解できないけど、自分の意見は構造的に主張できる
・相手の意見を構造的に理解できるし、自分の意見を構造的に話せる
彼は3つ目。更にいえば相手が意図していない背景や構造も自分の中で組み立てて解釈し、相手の意見の良し悪しを逆に相手に教えてあげながら自分の考えをキチンと主張するのだ(基本的に自分に素直なので、あまりに意味が分からない場合は一蹴(たまに無視?さえ)するのだけども(苦笑))。
コンサルタント(特に若手-中堅)には2つ目で満足している人間が案外多いように見える。クライアント相手であれば3つめの段階にとどまろうと努めるのだけど仲間内でのディスカッションとなった途端に2つ目になるパターン。
表面上の相手のエラーをついて、あとは自分の主張一辺倒になるパターンだ。
コンサルタントである以上、構造的にものを考えられない・話せないというのは致命的なのだけど、勿論ロジックだけがコンサルタントとしての武器ではない、これは犬の躾みたいなものだ。中には躾はなってないけど嗅覚が優れているものもいればその他様々な長所をもっている人間もいる。また多くの場合組み立てるロジックの違いは、目的の置き方の違い、状況の解釈の違い、前提の置き方の違いに拠っている。
そんな中でロジックが通ってる/通ってないというレイヤーでディスカッションをするというのはあまりに勿体無い。ましてや相手のロジックが自分の中で通らないだけで耳をふさいでしまうというのは多様なチームである価値を毀損している。そもそもに立ち返ってディスカッションし、更に価値を付加する機会を放棄している。
パートナーのしなやかなさばき(根元にあるのは純粋な知的好奇心かな)をみて、自分も時折つい忘れてしまいがちな、相手の意見をしっかり理解する、自分から価値をみつけにいく姿勢の大切さを改めて思い出した。その姿勢がディスカッションの質を高めるし、なによりチームの力を高めるのではないかと思う。

イライラの原因は自分にある

今日はちょっとイライラしていた。珍しい。普段あまりイライラすることがないので。そんな経験なのでイライラについて考えてみた。期待とレスポンスのネガティブGAPからイライラは生じる。特に他者に対しての。なぜGAPがあるのかというと、期待が間違っていたか相手のレスポンスが悪かったか。相手のレスポンスはアンコントローラブル。自分の期待が間違えていた方へ注目。
ちょっと話を戻すと。仕事に関していえば自分が他者へ期待する前には、クライアントからの期待があり、その期待を分解して自分で満たすものと自分以外で満たすものにしている。自分以外で満たそうと考えた期待に関してネガティブGAPが発生している。
全体の期待を自分含めてチームで満たせるサイズにするか、自分が満たせる期待をより大きなものにするか、他者が期待を満たせるように配慮しサポートするか、ネガティブGAPが発生した際にイライラが生じる前に他の方法を考える・実行に移すことができればいいのだという話になる。
結局のところ自分の力不足なんだなあというところへ辿り着く。普段イライラしなかったけど今回イライラしたというのは満たすべき期待が自分のキャパシティを超えていると感じたからだという話だ。自分がいきなりどんな期待にも答えられるようになることは難しい。でも最初のクライアントからの期待値を調整する部分であったり、他者への期待をキチンと伝えること、合意を形成することといったあたりは丁寧に意識にとどめておけばなんとかしていけそう(勿論キャパってモノはある。余裕無くなったら意識からとんでいくこともあるだろうけども。今回もそうだったわけだし)。
イライラをイライラのまま処理する(自分の内側でほとぼりが冷めるのを待つのも、外へ放出するのも)はあまり良いことがない気がする。内側にいつまでもくすぶっているくらいなら愚痴でも何でも発散してしまった方が良いし、その発生もとのエピソードを笑いに変えられたら大方スッキリできるけど。
前向きにはたらく何かのエネルギーにかえて行きたい。
こういうスタンスでいると、それに乗じて低いパフォーマンスのまま切り抜けようとする人もどうやらいる。そういう相手へは明確に告げる必要がある。価値が出せない、出せるようになる気がないなら去れと(今のところそういう人と一緒に仕事をしたことはないのですが)。

なぜそう反応するのか

プロジェクトの中で時折想定外のリアクションを返す人がいる。なんでそこにこだわるんだろう?なんでそこでフラストするんだろう?なんでそこは流すんだろう?なんで情報を断片的にシェアするんだろう?なんで?なんで?・・・
そんなときに1つ心がけているのは、そのリアクションを否定しない、ということ。
彼は何を言ってるんだ?何でこのタイミングでこうなんだ?意味がわからない。信じられない。使えないやつだ。やっていられない・・・いくつかの感情的なりアクションというのも選択肢として存在する。だけどこれらは矛盾を含んでいる。相手が間違っている(自分の中でそんなリアクションはありえない)、けど事実として相手はそのリアクションを返しているという矛盾。
自分の中に矛盾を抱えるのは心地よいことではない。そもそも解釈を変えない限り解決もできない、けど上記のような矛盾を含んだ選択肢を握り締めてしまうと、それを変えるには今度は自分が間違っていたということを受容れる必要がでてくる。そしてそれも癪だ、というような感覚を抱いてしまったりもする。
なので否定しない。相手を自分が理解できないとか、信じられないとか、そういう反応は選ばない。わからないなら、その事実を是として仮説を立てる。なんでそのような反応を相手が示したのか。合理性を見いだす。こっちは案外面白い。自分の中に矛盾を抱えていないし、発想も自由だ。そして何よりその仮説は今後に役立つ。その動機付けの要因に先に働きかけて弱める/なくしておくもよし、そこを気遣ったコミュニケーション手段をとるもよし。相手を動かしている要因がわかると(正しい表現ではないと思うが)相手がコントローラブルであると思えるようになる。突発的な想定外のリアクションも許容できるようになる。
現実には時折フラストすることもあるのだけど。そんなときはいつまでも悶々とするより軽く愚痴るなり一旦忘れるなりなんなりしてしまって、適切な選択肢を選んで前に進むのが良いと思っている。愚痴は軽くというのがポイント。笑いに換えれる位で。笑えれば感情的なわだかまりは流せる。

資料の目的

見た目美しい資料をつくれる人は多くみかけるのだけど、目的を考えずに資料を美しくする(それなりに手間をかけて)人も結構いるように感じる。それは非効率だ。そこに時間を投入しているという意味で。そして効果的とも言えない。クライアントとディスカッションをするためのペーパーであった場合ならディスカッションの幅を規定する枠になってしまうという意味で。
例えば、クライアントを理解しよう、お互いに知っている知識・考えている仮説をまずテーブルに並べてその筋の良し悪しをディスカッションしてみよう、と言うときに、コンサルタントが持ってきた資料が100%コンサルタントの主張する仮説をサポートするものであり、質はそこそこ、そしてそこそこロジックも担保されており、そして美しく図表が配置されてつくり切られていたとする。
その資料のクライアントへのメッセージは、”中途半端なロジックでものをいうな、この主張が正しいのだから受容れろ”となってしまうことが多い。資料がディスカッションを拒絶している上、説得までしようとしているように映る。
そう感じてクライアントは不快になる、そしてそこそこの質やロジックで言われても納得はできない。彼らは私達を理解する気がないのだな、且つその程度の主張を押し付けるのか、となる。でも資料を基に話をする(コンサルタントはそのつもりなので)、自然と資料のあら探しになる。俗にいうレビューモードのミーティングになる。
指摘事項をコンサルタントが直して持っていってまた自分達の主張を繰り広げようものならそのプロジェクトはむずかしいものになる。
仮説があるのは良い、それを主張するだけの裏づけを持てているのも良い。ただそれを全て資料に書ききってプレゼンしていてはディスカッションにならない、クライアントと一体になって頭で理解し、心で納得するようなものはできあがらない。
極論すれば論点と、その論点の理由を示す資料が1-2枚あればいい。仮説やらそれを支える情報やらは必要に応じて言えばいい、見せればいい。キレイにまとめられている必要は一切ない(かといって数字の羅列とかレポートの切り抜きの束とかではつらいが)。後はPCででもホワイトボードでもに書きながらディスカッションを進めればいい。
答えを期待していないときに無理やり答えとおぼしきものを持ってこられて、しかも最初から最後まで一方的に主張されるというのはおそらくとても居心地の悪いものだと思う。逆に答えを期待しているときに、答えを導き出すための論点の説明をされてもまたおかしなことになるだろうと思うが。