[書評] 責任という虚構 – 責任という現象の構造・意味は何か

この本を手にしたきっかけは、今から4年近く前、ライフネット生命の出口治明さんの『ライフネット生命社長の常識破りの思考法 ビジネスマンは「旅」と「読書」で学びなさい!』を読んだことにある。

その中で紹介されていて、タイトルに興味を覚えて購入した。その頃の自分であればおそらく手にしないであろう類の本であったことも購入動機だったように記憶している。そのため購入後他の物事にかまけてそのままにしてあった。ただ心の片隅にずっと残っていて2年前に日本からバルセロナへ引っ越す際にも捨てずに持ってきていた。1,000冊近い本を処分した中で。

”責任という現象の構造・意味は何か”を明らかにすることをテーマに、ホロコースト、死刑制度、冤罪を対象にして複数の哲学的アプローチを試み解釈を収斂させていく。

この本を読み進める中で、『生物と無生物のあいだ』を読んだ時のことを思い出した。それは、どちらを読んでいる時にも、ミステリー小説を読んでいるような感覚を抱いたからだ。

事象に関する詳細な事実情報があり、それに対する常識的な解釈があり、その常識的な解釈に対して疑問を投げ、異なるフレームで事実を再構成し、先の常識的な解釈を覆していく。

この一連はミステリー小説のプロットと同様だ。

また、扱うテーマと適用されるフレームの領域から、話の内容は一部『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』とも重なる。そのため、関連する哲学思想の一端に体系的に触れることができる。その分野に明るくない自分にとってはとても新鮮で刺激的であった。また、物事を掘り下げていくにつれて、複数の学問領域に跨った内容が登場することも面白かった。

 

改めて大切さを認識したのは、本書のはじめにのなかでも言われている次の言葉だ。

ものを考える際の最大の敵は常識という名の偏見だ。責任は何かというような倫理的配慮が絡みやすいテーマについて考えるときこそ、常識の罠を警戒しなければならない。善意が目を曇らせる。良識という最も執拗な偏見をどうしたら打破できるか。

物事に関して考えを巡らせる際に、その経験を通じて生じうる一切の感情は関係がない。自身がいかなる感情を持っても対峙する事象は変化しない。自身の目こそ変化すれ。

先に書いた本書で思考の対象となっている、ホロコースト、死刑制度、冤罪、それをとってみてもそこには当事者が存在し、凄惨な、悲惨な事実が存在する。その詳細の描写を読んでいると自然に感情が湧き上ってくるのを感じる。おそらくこれは常識であり善意であり良識に照らした反応なのだろう。

ここで大切なのは、それを思考と関係させないということは、生じる感情を否定することではないということだ。どのような種類の感情が、どのように生じようとも、それを思考(自身の行動)を関係させないという選択をすれば良い。

そう書きながらこの本で指摘されているいくつかのポイントを思い浮かべる。

意志決定があってから行為が遂行されるという常識は誤りであり、意志や意識は他の無意識な認知過程によって生成される。

意識は行動の原因というよりも、逆に行動を正当化する昨日を担う。意識が行動を決定するのではなく、行動が意識を形作るのだ。

自分の行為の原因がわからないから、妥当そうな「理由」が無意識に捏造される。

私という同一性はない。不断の自己同一化によって今ここに生み出される現象、これが主体の正体だ。

外界から影響を受けずに自立する自己など存在しない。

上記の数文は全てはじめにと序章から抜粋したものにすぎない。この後ミステリーは一層の深みを見せ、そして収斂していく。

素晴らしい時間を過ごさせてもらえた。僕にとっては内容の一部の理解に時間を要したため読了に7-8時間をかけた。