[1/3] 天より火の粉が降り注ぎ地上に花が咲き乱れる街Valenciaへいってきた – Las Fallas y Ofrenda de las Flores

今週の水曜木曜はバレンシアへ行ってきた。スペイン3大祭りのひとつ、サン・ホセの火祭り(Las Fallas)に行ってきたのだ。3大祭りの残りの2つはセビーリャの春祭り(Las Feria)とパンプローナの牛追い祭り(San Fermin)だ。

ねぶた祭のような張子(Falla)が大小いくつも街中に飾られており、それが最終日の夜に、1つを除く全てが燃やされる(その1つは火祭博物館へ永久保存される)とのこと。

大きな炎に照らされながらその燃え尽きるさまを静かに見守る趣ある情景が頭に浮かんだ。何て風流なお祭なんだろう、そういう静かで趣きのある夜を過ごせるなんて素晴らしい。パチパチと音を立てて燃え、形を失っていく張子の写真を撮りながらMBA生活を振り返ってみるのもいい経験になるに違いない。是非行ってみたいと思い、スケジュールを調整し、行ってきた。

バルセロナから電車で3時間と少し。バルセロナ発の電車が何事もなかったかのように2時間遅れたが、ホームで偶然あった同級生と話したりケースを読んだりアサインメントを進めたりしゃべったりして過ごし、無事電車に乗り込んだ。

バレンシアの駅に降り立つと既に多くの人で溢れていた。僕らと同様、19日のLas Fallasのフィナーレ(と闘牛)を見に来られている方々だろうと思う。

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駅を出ると外は既に多くの道が歩行者天国になっており、人通りもとても多くなっていた。お祭りらしく、多くの出店や大道芸人?が人通りを賑わせていた。

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初めてのバレンシアは道の広さと建物から、バルセロナよりも大きくそして歴史を感じさせた。

当初の想像よりスケールの大きい街と人の群れに僕は想像をアップデートした。当初考えていたような静寂の中燃えていく張子とそれを見守る人、という雰囲気ではない。ルミナリエのような感じではないかと。

滞在するフラットへ向い、荷物をおろし、仲間と合流し、祭りへと繰り出した。仲間がAirbnbを使って借りてくれたところだ。4名で泊まるのだがベッドルームが4-5つあり、7-8人で泊まれる大きさの家だった。この時期バレンシアのホテルの価格は高騰していたようだが、リーズナブルな価格で宿を確保することができた。自分で使ったことのないサービスだったが今後使ってみたいと思った。

街へ繰り出し、僕は想像を再度アップデートした。ルミナリエのような雰囲気でもないと。2つの情報が加わったからだ。

まず合流した仲間より、昨年参加された方からの情報を得た。聞く所によると、その方は、

燃え上がる張子の炎は想像以上に熱く近くで佇んでいることは不可能だった。そして燃えた火の粉が上空から自分達に降り注いでくるため非常に危険だった。

己を守るために、自分しかいなかったが、カッパを着ていた。

と言われていたとのこと。

次に、いざ街に出て祭りが始まらんとしている中歩いていると、遠くで近くで、いたるところで爆竹が鳴らされているということだった。

ただでさえなる度に肩を びくっ っとさせていた。時折、今のは銃声ではないのか、という位大きい音も聞こえてきた。もはや、僕たちは近くで小さい火花が見えた時点で自ずと耳を塞いで歩くようになっていた。

例えそれが爆竹ではなくただの花火であったとしても。そして周りの人々に笑われようとも。

出店で軽くご飯をつまんで、いよいよ街中に飾られている張子(Falla)を見てまわった。これら全てがこの一晩で灰になるのだというのはにわかには信じられなかった。爆竹の音にはなかなか慣れなかった。

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こうしている間に暗くなり、いよいよ全てを燃やすフィナーレに向けて祭りは動き出した。その間、街の一角では音楽に合わせながら踊り歩く一団もいて、人の密度もいよいよ高くなり、相変わらず鳴り響き続ける爆竹もあり、一方では小規模なルミナリエのようなライトによる装飾も街に施されていた。

 

僕はLas Fallasへのイメージ、先入観を捨てることにした。

 

-つづく-

 

何があっても最後は自分がどうにかするという覚悟

最終学期で卒業までもう時間が限られているということで、就職活動もたけなわということで、仲間の日頃の行動の優先順位がいよいよ多様化している。

そんな中で選択しているVCPE(Venture Capital & Private Equity)のクラスでは毎週のようにチームでのアサインメントが課される(4人で1チームになっている)。投資家の立場であるPEファンドに投資するべきかどうかを分析・判断する。ファンドのGPの立場で投資家へピッチする、どの企業へ投資するべきか分析・判断する、起業家の立場でVCへピッチする。等々。

毎回数十から数百ページに渡るケースと資料(ファンドの目論見書であったり投資案件の目論見書であったり)を読み込んで事前に資料を作成しクラスに臨む。

毎回のプレゼンテーションにはGPの立場で投資家へプレゼンする場合は投資家の方々が、起業家の立場でVCへピッチする場合はVCの方々がクラスの最前列の席に座り数々の質問が浴びせられる。

教授陣の学生への期待値も高く、質の低いプレゼンやクラスディスカッションに対しては辛辣なコメントが寄せられる。

 

というクラスであっても、それに臨む学生には冒頭に述べた通りそれぞれのプライオリティがある。結果、チームワークを発揮するのが難しいケースが発生する。

アウトプットの構造とメッセージを合意して分担しても出てくる資料の質が低い、質問に耐えうるロジックがない、もしくは資料がでてこない。

タスクを分担して進めた方が効率的だという意見に従いそうする。すると今度は締切の1-2日前になって、忘れていた、わからない、という話で白紙のまま手元に戻ってくることもある。その頃には相手に教えながら、丁寧に議論をしながら内容を詰める時間はない。申し訳ないと思いながら全て自分に任せてもらう。

 

こういう状況にあっても仲間を責めることなく粛々となすべきことをなしていけるのは(たまにネタで文句をいうことはあるとしても)、それが想定の範囲内だということもあるが、自で決めたことがあるからだと思う。それは、

このクラスから学びたいことがありそれを得るのだということ、そのためのアサインメントであれなんであれ、最終的には自分で何とかするのだということ

だ。後者は自分なら何とかできるという根拠の不確かな自信も混ざっている。

チームワークの質と僕がそのクラスから学ぶことには関係がない。良いチームワークが発揮できれば仲間からより多いものを学べるという考えはあるが、それはクラス中でも、違うチームの仲間からでも学べる。

その学びを多くするためには事前準備は大切だ。なので全てのアサインメントに主体的に関与する。自分の納得の行くアウトプットを出すという点においてもチームワークがどのようになろうとも関係がない。実際に出すものが100%自身の理想を体現していなくてもどうするべきかは具体的にイメージがある状態でクラスに臨める。それであれば学べる。

今の時間の大切さはわかる。大切な友達と好きに旅行できるのも今だけだろう、卒業後のキャリアを決めるのに誰だって悔いを残したくないだろう。

そして僕はこのクラスの学びにおいて妥協したくないのだ。なのでチームワークと言う名のもとにそこそこのところで手を打って、何となく課題をこなしてやり過ごしていくようなことは避けたい。その道のプロにかなわずとも、そのGAPを知り、埋めていく過程も大切な成長だ。

そうやって動いているとチームメイトのことは気にならなくなる。

不思議なものでそうしていると同じように考えて一緒に頑張る仲間がうまれたり、旅行優先だった仲間に責任感が生まれたりし始めたりもする。

良い経験になればと思う。

並行タスクをやりやすくするために

複数のタスクを同時進行すると往々にして生産性が下がることがある。僕もそういう時はある。そんな時に大切なのは、

  1. タスクの選択にかかる負荷を下げる
  2. タスクのスイッチにかかる負荷を下げる
  3. 同時に複数タスクを考えない

という3点だろうと思っている。複数タスクの同時進行をしても、上記3つができれば投入時間あたりのパフォーマンスは変わらない。1と2は細切れになることによるパフォーマンス低下をなくし、3は投入している時間内のパフォーマンスの低下をなくす。

これらを実現するためにどうするか。それは、これら全てをToDoリストにアウトソースし、それを更新する時間を設けるということに尽きる

概ね次のプロセスでできる。

  • 仕事でもプライベートでも、とにかく自分がやるべきタスクを全て書き出す。スッキリするまで全て書き出す

ここが最も大切だ。作成するリストを信頼するためにはそこに抜け漏れがあってはならない。そのために、ここに吐き出したことができればいいんだ、と確信が持てるまで洗いざらい書き出さなくてはならない。

  • 自分でやらなくてはならないものと他へ依頼するものを分ける

タスクの中には自分でなく他人が関係するものもあるだろう。それを分ける。依頼できるものは早々にしてしまって、次のアクションをとるタイミングまで忘れればいい。次のアクションとは、結果をすぐに受けとれるのならそれを受けてのタスクを書き足す、時間がかかったりする場合は相手へリマインドをタスクとして書き足す、といった具合だ。

  • 締切と所要時間を決める

タスクの締切を決め、自分でやらなくてはならないものは所要時間を決める。所要時間まで概ね決めておくのが大切だ。それがあってはじめて自分の時間をどれだけ配分するのか / しないのかが決められる、その時間ないで終わらせなくてはならないという気持ちが生まれるからだ。

これをしようとすると必然的にタスクの粒度が自分の想像力の働くレベルになる。自分がアウトプットを想像できないもの、何をするべきか想像できないものは所要時間を決められないからだ。その類のタスクは実行不可能だ。出すべきアウトプット・やるべきことがみえていないのだからやりようがない。

そして、往々にして使う時間を決めておかないと生産性を上げるのは難しい。ずるずると使えると思えるだけ目の前のタスクに時間を費やし、早々にお尻に火がついて目の前のタスクに忙殺され、ToDo全体を見る余裕を失い、そうこうしている間に他のタスクが乗っかってきたり他に任せていたものが期待通りに戻ってこなかったりで一層余裕を失い、タスクを洗い出すことさえできなくなり、頭のなかは複数のタスクでいっぱいになりひとつのタスクに集中することができなくなる。パフォーマンスは下がる一方だ。

何よりもったいないのは、”何となく心配する”、”あれもやらなきゃこれもやらなきゃと焦る”という無価値な行為に自分の頭が使われ始めることだ。ただでさえ既に時間がなくなっているのに、この何となく心配する、何となく他のタスクを気にして焦る、ということが常に発生し、パフォーマンスを下げるのだ。

何の心配も焦りも要らない。心配しても焦ってもやるべきことは一切変わらない。タスクは一切進まない、結果は一切良くならない。

  • スケジュールにタスクを組み込む

Googleカレンダーの1周間表示画面でタスクで時間をブロックしていくイメージだ。タスクにどこまでルーティンを含めているかにもよるが、こうしてビジュアルで時間を捉えると、食事がとれるのか、移動できるのか、長時間1つのタスクに集中できるのか / 何かと重ねてできないか、等時間の使い方を具体的に想像できる。

  • スケジュールを信じて従う

実行の際に大切なことはただひとつ、こうしてたてたスケジュールを信じて従う、ということだけだ。それができなければこれまでやってきたことの意味がない。そしてこれまで上に書いてきたことは、これであれば信じて従えると思えるまでやらはなくてはならない。

スケジュールに従うということは、それにはまらない話を断るということだ。この粒度でスケジュールを立てていると、急な誘いや依頼に対して、明確にNoということができる。もしくはいつの何時間であれば提供できるがその範囲でできることを教えてほしい等、役割分担であり投入する時間でありの交渉を具体的にできるようになる。

仕事を依頼された時に最も避けるべきは、安易に引き受けそして期待された結果をださない、ということだ。こうしてスケジュールを立て、それに従って行動している時点でこれは避けられるだろう。

  • とはいえ柔軟に。そして振り返る・更新することもタスクとして組み込んでおく

そうは言っても、急な食事の誘いだったり面白そうなイベントに招待されたり、なんてこともあると思う。そういう時はその優先順位に応じて他のタスクのスケジュールをずらせばいい。それができるかどうかもこうしてスケジュールを立てているから判断がしやすいはずだ。

そういう事態は往々にして起こる。そんな中でも常に自分のつくったリストを信頼し続けるために、例えば週に1度は30分程でも時間をとって、リストを見直すことに使うと良い。

 

慣れると色々なタスクがあっても平穏に粛々と片付けていけるように感じる。

今年もすごかった -IESE Multi Culti 2014

腰とおしりが重度の筋肉痛になっている。

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あっという間に終わった文化祭 -Multi Culti。今年もとても面白かった。

今年は日本のパフォーマンスにも参加させてもらった。写真を撮りたかったのでブースで食事やお酒をサーブする役割は失礼させてもらった。そこが一番大変なところだと思いつつ。学生のみならずパートナーの方々へも負担がかかるし、パフォーマンスのように舞台での4分のために準備をし、それを終えて肩の荷が降りる、という類のものではないし。

準備の段階からもろもろ振り返りたい。僕はいちパフォーマーとして参加したに過ぎない。横から見ていて感じたことを書いている。

 

本気だから衝突する。衝突するからより考える。より考え衝突するからより良い物ができる、チームの結束が強まる

人はおおよそどうでもいいと思うことに頭を使わない。どうでもよくない、こうしたい、という意志があると頭を使う。それを実現するためにどうするべきかと。

そしてそれぞれ異なる意志を持つことで衝突が生まれる。衝突することで異なる考え方について再考し、その過程でさらに良いアイデアが生まれる可能性を得られる。さらにその過程を通じてチームとして(リーダーとしてフォロアーとして)どのように動くべきなのか各人が考え、行動を変えられる。

結果、より良いアイデアと、より良いチームが生まれるのだと思う。

今回、コスプレと法被、組体操とソーラン節、加えてスーパーマリオとキル・ビルの素晴らしいコラボレーションが生まれた。

練習・改善・練習・改善・・・をやめない。

リーダーとその分野の経験のある仲間で、時間配分、振り付けの編集、曲の編集等がすみやかに進められ、各パートの練習が始まった。個人練習、有志で集まっての練習、全体練習、概ね予定通りに集まり、着実に完成度を高めていた、と信じる。よりパフォーマンスにメリハリがつくよう、見る側にわかりやすくなるよう曲も編集が加えられ良い物になっていった。

集まって練習をするとより良いアイデアが浮かび、試し、判断し、また練習する。何も考えずに当たり前のようにやってたが、これができるのは日本人のひとつの特徴なのかもしれない。

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その積み重ねが本番での自分たちを強くする

そして迎えた本番。舞台裏で着替えを済ませ、最後に振り付けをあわせ、円陣を組み気合をいれてスタート。

イントロから順調に入り最初のパートを終えた所で異変に気づく。変更した曲が本番の音楽に反映されていなかったのだ。練習の中で、どの音楽(というか音)にあわせてどう動くというレベルまで考えていたのだがその音が鳴らない。

チームに動揺が生まれる。後半登場だったので舞台袖で見ていて思ったのは、音楽がなくても何をするかは記憶されていてうまくパフォーマンスを進められていたということだ。音楽を編集する際、大きい塊での時間配分は変えず、その配分の中で音楽を変えていた。だからなる音楽は違っても普段通りに動けば時間内にパフォーマンスをし、最後決められることに変わりはなかった。

結果時間配分もさほど狂うことなく前半の見せ場をこなし、盛大な歓声を浴び、数秒の浮いた時間こそあったものの、後半スタート。最後のポーズを決めた時あびた喝采は今年のMulti Cultiの中で一番大きかったのではないだろうか。

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日本のブースも大盛況で、用意していた料理・お酒も程よいタイミングで全てなくなったと思う。唐揚げと枝豆は日本人学生のパートナーの方々お手製でとても盛況だった。僕も食べたかったがそれは趣旨が異なるということで我慢した。

最終的に皆が酔って盛り上がり、国のブースの境目が曖昧になって全部とっ散らかる、という展開なのだけど、日本のブースは片付けも速やかでキレイだったと思う。(写真はとっ散らかったときのもの)

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仲間と話していて、たまに出る卒業後の進路の話や、残りあともう少しだね、という話題になるたびに、ふいに寂しくなるのが印象的だった。IESEにきてこれまで、まだそういう感情がでてきたことがなかったので。

残りの時間もよいものにしていきたい。

話す側の責任・聞く側の責任

ひょんなことから学校に早く来たので時間があるうちに昨日頭に浮かんだことを文字にしておきたい。

議論する際、話す側にも聞く側にも果たすべき責任がある。もし建設的な議論をしたいのなら。ファシリテーターはいないものとし、話す側、聞く側の2つについて書く。

話す側の責任は、”はっきり簡潔にものを言う”ということだ。それは、

  • (論点)
  • 結論
  • 理由(with事実)

を、主語と述語が明確にわかる文で伝えるということだ。論点は自分が明確にする必要があると感じたらその際に触れる。自分が思うよりはるかに、自分の言うことは相手に伝わらないという認識を持ち、合意云々の前に相手に自分の言いたいことを正確に伝えることに心を砕くべきだ。

聞く側の責任は、”理解するまで質問し続ける”ということだ。

理解が曖昧なら、それに対して的確な意見は返せない。まず第一に相手が言っていることを理解することが必要なのだ。だからそれができるまで、必要な質問をし続けるべきだ。質問を重ねるごとにそれは具体的になっているべきだ。

当たり前のことを言っているようだが、これらができていない(でき続けていない)議論は多い。話す側の責任を放棄して緩慢に言葉を吐き出し続ける、聞く側の責任を放棄して正しい理解の積み上がらない意見の言い合いに発展する、もしくは諦めて納得したふりをする等。建設的な議論をしたくないのであればそれでいい。そうでないなら避けた方がいい。