[書評]イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

41gcQp3Tc3L._SS400_

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」
安宅和人 (著)

日本にいるうちにこれは読んでおきたいなと思い手にした一冊。本の構成も各コンテンツも非常に平易な表現で書かれておりわかりやすい。この本に記されている内容は誰しも使えるようになっていて損はないものだと思う。過去にMBAとコンサルティングの違いについて書いた。その中で”頭の使い方、ものの伝え方の違い”について触れた。

MBAに集まる学生の多くがこの頭の使い方を知らない。その中で、バックグラウンドも価値観も多様なメンバーで日々チームワークと格闘する。これはこれで貴重な経験であると思う。実世界でも、コンサルティングファーム等を除けば、日常で乗り越えていかなくてはならないものだから。

しかし、この考え方を知っていたらもっと時間をうまく使える。結果、アウトプットの価値を高めることに直結するタスクに時間を投入できる。原理主義的に信じ、他の考え方を排除しようとするような動きはいただけないが、不確実性やチームのゆらぎというものを受け入れながらこの考え方をベースに動くことの価値は高いだろう。

僕もこの本を通じて反省した点、改めて学んだ点は多い。多様な経験、自分のキャパシティを大きく超える経験の中で自分を甘やかしていた部分、忙しさに流されて雑になっていた部分があった。

だからこのタイミングでこの本を手にすることができて良かったと思っている。

P.27 絶対にやってはならないのが、「一心不乱に大量の仕事をして右上にいこうとする」ことだ。」労働量によって上にいき、左回りで右上に到達しよう」というこのアプローチを僕は「犬の道」と読んでいる。

これは本当に避けなくてはならない。往々にして残り時間わずかにして自分がこなしてきた膨大な仕事のSo whatを見失い、結局自分は何が言いたかったのか混乱し、アウトプットとしてまとめる時間を確保していないためにまとまりのないものとなり、”沢山調べたようだが意味がわからない”、”そもそもかたちになってない。コンプリートしてない”という印象を与えて終わるだろう。何かしらのこたえを出すこともできるかもしれない。ただそのこたえから逆算した時に意味のある仕事はどれだかあっただろうか。そういった膨大な仕事の積み上げがあったからこそそのこたえに辿りつけたと言うことはできるだろう。ただ考えるべきは、それらがなければ、もっと良いこたえにたどりつけたのではないか、こたえをもっと深堀りすることができたのではないかということだ。

P.39 論理だけに寄りかかり、短絡的・表層的な思考をする人間は危険だ。世の中には「ロジカル・シンキング」「フレームワーク思考」などの問題解決のツールが出回っているが、問題というものは、残念ながらこれらだけでは決して解決しない。問題に立ち向かう際には、それぞれの情報について、複合的な意味合いを考えぬく必要がある。それらをしっかりつかむためには、他人からの話だけではなく、自ら現場に出向くなりして一次情報をつかむ必要がある。そして、さらに難しいのは、そうしてつかんだ情報を「自分なりに感じる」ことなのだが、この重要性について多くの本ではほとんど触れられていない。

表面的にフレームワークで物事を整理しても、フレームワークを埋めるための情報を集めてみても、それだけは何も生まれない。何か言いたいことがあってそれをサポートするための情報収集であり分析でありだ。何か言いたいこと、イシューに対する仮のこたえ、即ち仮説、がなければ、もしくは検証する価値のあるそれらをもっていなければ、情報をいじる意味は大きく限定される。

P.50 「これがイシューかな?」「ここが見極めどころかな?」と思ったら、すぐにそれを言葉にして表現することが大切だ。なぜか?それはイシューを言葉で表現することではじめて「自分がそのイシューをどのようにとらえているのか」「何と何についての分岐点をはっきりさせようとしているのか」ということが明確になるからだ。言葉で表現しないと、自分だけでなくチームのなかでも誤解が生まれ、それが結果として大きなズレやムダを生む。

頭のなかでロジックツリーと思しきものがあり、データがあり、分析結果をわかりやすく表現するチャートイメージがある、と思っていても、いざそれらを全て文字で書き起こしてみるとうまく書けないことは往々にしてある。それがシンプルに明確に書ききれないということは、どこか、自分が自分のチャートイメージの印象であり表層的なロジックツリーのみために騙されている可能性がある。

P.61 「これがイシューだ」と思ったら、そのイシューの主語を確認してみよう。「誰にとって」という主語を変えても成り立つものは、まだイシューとしての見極めが甘い可能性が高い。

これはイシューに限らず言える。例えばWhy A社?に答える理由を並べて、AをBにしても成り立ってしまうような理由であったらそれらは不十分だ。

P.74 イシュー見極めにおける理想は、若き日の利根川のように、誰もが「答えを出すべきだ」と感じていても「手がつけようがない」と思っている問題に対し、「自分の手法ならば答えを出せる」と感じる「死角的なイシュー」を発見することだ。世の中の人が何と言おうと、自分だけが持つ視点で答えを出せる可能性がないか、そういう気持ちを常にもっておくべきだ。学術的アプローチや事業分野を超えた経験がないものをいうのは、多くがこの「自分だけの視点」をもてるためなのだ。

筆者がいうように、「ロジカル・シンキング」「フレームワーク思考」などは巷にあふれている。ロジックを構築する部分、もれなくダブりなく情報を集め整理する部分で付加できる価値は小さくなっているだろう。だからこそ、いやそうでなかったとしても、根本的に価値の大小を左右するのは、それらを使って挑むイシューの価値の大小だ。

P.86 つまり「知り過ぎたバカ」にならない範囲で情報収集を止めることが、イシュー出しに向けた情報集めの極意のひとつだ。

その通りだ。情報を蓄積する過程で、自分の思考が、その業界識者のマジョリティと重なる部分がでてきたら注意したほうが良い。識者と似たような考え方しかできないのなら彼らでよい。あなたは不要だ。

P.144 絵コンテづくりで大切な心構えは「大胆に思い切って描く」ということだ。「どんなデータが取れそうか」ではなく、「どんな分析結果がほしいのか」を起点に分析イメージをつくる。ここでも「イシューからはじめる」思想で分析の設計を行うことが大切だ。「これなら取れそうだ」と思われるデータから分析を設計するのは本末転倒であり、これをやってしまうと、ここまでやってきたイシューの見極めもストーリーラインづくりもムダになってしまう。

(中略)

イシューの視点からデータの取り方や分析手法にストレッチ(背伸び)が生まれるのはよいサインだ。正しくイシューをベースに絵コンテづくりをしている証拠でもある。

程度問題こそあるが、ここで、できるかどうかもわからないのに餅を書くことにこんなに時間をかけてどうするんだ?無価値だ、と考えることは危険だ。最初から妥協した、取れるデータのみでなりたつロジックで主張しても、それだけでは弱い。理想的なロジックとサポーティングファクトがあり、それがなかった場合の代替ファクトとして何が、なぜ有効なのかが示されており、その上で代替して初めて説得力を持つと言える。なので、逆に、データ収集を計画する時点で、取れるかどうかわからないものに関しては代替ファクトとして何があるかを考えておく必要があるだろう。

P.184 僕たち1人ひとりの仕事の信用のベースは「フェアな姿勢」にある。都合のよいものだけを見る「答えありき」と「イシューからはじめる」考え方は全く違うことを強く認識しておきたい。

その通りだ。限られた時間の中で、大きいプレッシャーのもとで、それらに負けて都合のよい情報収集だけに走る人間は信頼を著しく損なう。そのような行動は、当人が必死で頑張っている時ほど、彼はフェアな姿勢を失うのではないかという見方を招き、必死になるほど疑われるという悪循環を招く。

P.193 自分の手がける問題について、「聞きまくれる相手」がいる、というのはスキルの一部だ。自分独自のネットワークをもっていることは素晴らしいことだし、直接的には知らない人からもストーリーぐらいは聞けることが多い。

1人で考えなくてはならない、というルールはない。仕事に責任を負うのであれば、自分の頭が整理できていなくとも、どんな状態であれ、自分一人で乗り越えられない壁があるのなら、積極的に周りに頼るべきだ。礼は欠いてはならない。

P.197 正しくアウトプットを理解し、注力し、トラブルを回避すれば、最後は「軽快に答えを出す」だけだ。どんなイシューもサブイシューも、答えを出してはじめてそれに関する仕事が終わった、と言える。ここで大切なことは「停滞しない」ことだ。

軽快に、というのが極めて重要だ。自分ひとりで難しかったら他人に頼ればいい。得られない情報があったら代替案に速やかに切り替える。ロジックツリーの切り口が悪かったら切り直す。限られた時間、リソースの中での行動だが、停滞する必要は一切ない。停滞しかけている、していると自覚があったら背中を押してくれる仲間と話せばいい。勿論まとまった時間考える必要がある場面は多い、ただ、考えているのか、悩んでしまっているのか、そこは丁寧に切り分けておきたいところだ。

最後に、安宅氏も触れており、僕も昔お世話になっていたコンサルタントの方から言われて印象に残っている言葉がある。

Complete work

だ(安宅氏はComplete Staff Workと表現している)。自分が受けた仕事はいかなる時も完遂する、ということだ。自分がそうするのだいう信念を持つ、そうできるのだという確信を持つことが、自分の身を軽くしてくれる、軽快にこたえをだすエネルギーの源泉になる。なぜなら、何がどうなったとしても、自分がComplete workすることにかわりはないのだから。

 

素晴らしい一冊であった。