OMOTENASHIのちから

この土曜日に、IESEの日本人1年生でJapan “OMOTENASHI” Nightと称して同級生をもてなした。
背景は昨年のThanks Giving Charity Auction。IESEで毎年行われているイベントで、思い思いのチームがものやことを出品しオークションにかけられる。落札されたお金は全て寄付にまわる。日本人チームで出品したのが上記、Japan “OMOTENASHI” Nightだった。
(おそらく)日本であり日本食に興味のある同じく1年生のチームが落札した。オークションの場には僕はいなかったが、それなりに盛り上がったようで嬉しい限りだ。もっと言えば、僕は当日カメラマンとして参加したのみで、会場の選定・交渉、当日のコンテンツの企画・準備、当日の仕切りにはほぼ関与していない。限られた時間の中で素晴らしいおもてなしを提供した仲間には頭が下がる。
企画のやりとり(ミーティングでありメールでありでのディスカッション)はみていた。この過程自体にも大きな価値があると感じていた。そもそも日本をどうメッセージしたいかという話とどうしたら来ていただけるゲストの方々に満足していただけるか、そこに関して十分な議論が尽くされていたと感じている。
日本の宴会のクオリティの高さは(様々な伝わり方をしているが)有名だ。ではその宴会芸を磨いて披露するべきか。しかし宴会芸(色々ある)イコール日本のおもてなしなのか、という議論もあった。それはあくまで一つの側面に過ぎない。実際に宴会芸というものに慣れ親しんでいるバックグラウンドの日本人もいれば、まったくそうでない人もいる。確かに盛り上がるかもしれないし、楽しんでもらえるかもしれない、しかしそこだけを強調することが自分たちが伝えたいメッセージをサポートするのか、という議論だった。
最終的には、静と動の織り交ざった素晴らしいコンテンツが練り上げられていた。
こうしたやりとりから僕が感じたのは日本の文化の厚みだと思う。僕が文化について無知だということも多分に手伝ってだと思うが。
お店の中ひとつとっても、食事そのもの、器等のファシリティ、建物の内装、衣服、立ち振舞、全てが共通の文化でつながっている。茶道や書道に関してもその一挙手一投足(特に茶道)でありすべての道具に役割があり意味合いがある。そして宴会になれば、宴会芸に関しても、先述のものと歴史の長さ・重みは違えど、共通のものがある。
欧米でもそれなりのレストランへ行けば雰囲気はあるだろうし、クラブにいけば宴会芸というかゲームのようなものはあるだろうと思う。ただその根底に文化が受け継がれているか、存在するかというと僕はそれを知らない。珍しさもあるのかもしれないが、普段でもこのディナーを通じてでも、海外の方が日本の文化に触れた時の驚きや感動を見ると、他にはないもの、素晴らしいもののように感じる。
そして土曜日、とても素晴らしい夜であったと思う。
直前まで準備をしていても、本番でその場の雰囲気であったりゲストのテンションであったりに応じて、その準備したコンテンツを引っ込めて柔軟に立ち回れるというのも素晴らしいことだと思った。そうした相手が心地よい時間を過ごせる、満足できることに焦点を定めて動くというのは考える以上に難しいことだ。どこまでが文化に依存する話で、どこからが個人に依存する話なのか自分の中で曖昧ではあるのだが、日本人のおもてなしを心ゆくまで楽しんでもらえたと思いたい。
翻って、おもてなしというのを一流のサービスと置き換えて考えると、頭に浮かぶのはリッツ・カールトンであったりする。日本の旅館でありホテルであり料亭でありレストランでありにも素晴らしいサービスがあると信じているのだが。単に自分の無知に端を発する話であれば良いが、日本の素晴らしさがうまく伝わっていなかったり、活かしきれていなかったりするのだとすると、少なくとも自分が届く範囲においてはキチンと伝えて行きたいと思う次第。

質問の質と順位

今日は朝からパネルディスカッションを見てきた。テーマはGlobal Business Outlook: How global companies look at the worldで、登壇者は3人であった。メディア業界から1名、同業界SMEとしてコンサルティングファームのパートナーが1名、そしてHoward Stringer。
時間は90分、AudienceはIESEの学生で、100名程度だったか思う。内容はさておく。ふと思ったことがあったのでここにまとめておきたい。ケーススタディに参加している時もそうだし、パネルディスカッションを聴いてる時にしてもそうなのだが、質問するのが上手い人がいる。どんな条件を満たしているか考えてみた。

・理解が示されている
・不明な点(知りたい点)が示されている
・それを明確にしたい理由が示されている
・シンプルである
・ポジティブである
・知りたい意欲が示されている

次に質問の順位について。最も大切なのことは、上記を満たしている質問をすることだ。次に大切なことは、上記を満たしていない質問をすることだ。それについで、質問は見つからなかったが話を聞く前に持っていた質問候補が全て解消されていることだ。そして避けるべきは問もなく漫然と参加し、漫然と話を聞き、何を得たかも自覚せずその場を後にし、参加する前と全く同じ行動をとり続けることだ。
質問の価値の受け手は少なくとも3種類いる。聴衆、話者、事務局含む関係者だ。
聴衆は質問によってその場に臨んだ目的と現実のGAPを埋められる
話者は質問によって新たな視点・発想を得られる場合があるし、質問に応えることで聴衆に対する提供価値を高められる
事務局は、上記のように質問を通じて聴衆と話者の満足度が上がることで、その場を提供したことの価値が高められる
従って、聴衆は聴衆の立場だけを考えれば、目的と現実にGAPがなければ質問する必要性はないが(それは素晴らしいことであると言えると同時に、話者・事務局がプレゼンを通じて新たな疑問を生じさせることができなかった/発想を進化させられなかったという捉え方もできる)、それでも質問をすることで話者・事務局への提供価値を高められる。それは今回のケースであれば自分たちであり所属する組織の素晴らしさを伝えられることになり、それは今後より魅力的な場を獲得できるきっかけにもなり得る。聴衆間で理解度の違いもあるだろうからそこに対して役立つ場合も多い。
こうして考えながら自分の今回のパネルディスカッションへのスタンスを省みる。
これから良くしていこうと思う次第。
何事もインプットしないよりした方がいいという考え方もある。頭の中に放り込んでおけばいつか役に立つかもしれない、他の知識や経験とつながることで面白いものが生まれるかもしれない。ただ、それにしてもその場をつくるために関わっている関係各位を考えれば、ちょっとしたことであっても質問するべきだろうし、やはり上記の様な将来の可能性を考えているなら、自然と質問も浮かんでくるのだろうと思う。

ホワイトボード、ストラクチャーブーム

ホワイトボードに自分の意見を構造化して話をするというのがチームの中で流行りだした。嬉しいことだ。ミーティングのゴールが設定されていなかったり、絵やツリーを描いてもSo whatがなかったりするし、その絵の中で縦と横の空間の意味づけがなかったりオブジェクトの形や矢印の意味合いがバラバラだったりするが、それでも見ていて微笑ましいし楽しい。
面白いもので、こうして議論をし始めるとチェアする人がその前にするべきことを自覚しはじめる。構造が必要だ、メッセージが必要だ、そのために少し下調べをしておきたい、そうしないと議論の土台がつくれない等。
プロジェクトのワークスタイルに従えば、プロジェクトの目的があって、期間があって、出すべきアウトプットがあって、そのアウトプットに必要な構造があって、その構造の中身をつくるタスクがあって、途中段階の結果に応じて以降の方針を決定するマイルストーンがあって、タスクを実行する中で必要なコミュニケーションの頻度とアウトプットとマイルストーンに従った各コミュニケーションのアジェンダ(ミーティングプラン)がある。
それに倣うことが目的ではない。皆で試行錯誤しながら前に進んでいきたい。その過程でこれまで以上にチームでありチームメンバー各人でありの役に立てれば嬉しい。