IESEでのケーススタディをまとめる。日々クラスで何が起こっているのか。

クラスでもっと貢献するにはどうしたら良いか、学びを深めるにはどうしたらいいか、IESEへやってきてから何度となく考えている。が、そもそもクラスで何が行われているのか、ケースディスカッションについて特段触れていなかった。そもそもケースインテンシヴなカリキュラムは自分がMBAに進むに際して一つ大切にしていたポイントでもあった。その期待と現実を比較しながらまとめたい。いくつかのパーツは既にこのブログに記した内容と重なっている。

まずそもそもケースインテンシヴといってもどの程度のものなのか。1st Termで言えばLeadershipやMarketing Management等のクラスは100%、Financial AccountingやDecision Analysisといった基礎知識が大きく求められるクラスにおいてもケーススタディの比率は前者で40%、後者で80%程度であった。ケースの比重に応じてクラスに臨むに際して求められる準備のレベルも高まる。この点は良いチャレンジになっていると感じている。

1st Termでの経験を通じて3つ新たな気づきを得た。クラスディスカッションへ貢献する難しさと楽しさ、学びの深さは自分が規定する、ケースディスカッションを楽しむ仕組みの存在とその大切さの3つだ。


まず、クラスディスカッションへ貢献する難しさと楽しさ。1クラス75分の中で70人程度のセクションが議論を交わす。ケーススタディ中心のクラスが多いと言うことは、クラスディスカッションへの貢献が成績に占める割合が大きいということ。高いもので50-60%になる。クラスを開始し、ひとたび教授がクラスに問を投げかけるとクラスの1/3から半数程度が手を挙げる。そこからディスカッションのフローが始まる。難しいのは、その非常に柔軟性の高いフローの中で自身の主張を立てポジションをとることだ。多くの意見が様々な角度から出る。ケースの情報を提供するだけのものもあれば、鋭い示唆を含むものもある。ケースの枠を超えた各人のバックグラウンドに根ざした実体験もある。教授が強く指揮をとることはあまりない。ポイントポイントで軌道修正をすることもあるが、問を深め、広げ、クラスの議論をゆるやかにコントロールする。後は学びのポイントを強調する、議論が散らかりそうになった時に整理する、という具合だ。オーケストラというよりはジャズに近いイメージだ。なので、自分がいかに筋の良い意見、面白い意見を持っていても、議論のフローを理解していないと発言は難しく、流れを外す/変えるような意見であれば(往々にして重要な学びはそのような意見から生まれる)それを貫くだけの裏付けが求められる。

それを成し遂げることが楽しいのだと感じている。自分の投じた意見、奏でた音に周りが加わって価値のある議論が生まれていくことは本当にエキサイティングであり楽しい。反面、それができないときは悔しい。


次に、学びの深さは自分が規定するということ。上記のようなディスカッションが75分なされ、教授が最後に簡単にラップアップし、時折ケースの後日談を話し、クラスは閉じる。そこから何を得るのか、それは自分が何を求めてそのクラスに臨んだのかが規定する。予習を十分にせずに臨んだクラスから得るものは少ない。自分の中にそのクラスから何を得たいのか、クラスで何を問いたいのかが不明確だからだ。問なくして答えは得られない。目標なくして成果は得られない。感覚値だが予習には1ケースあたり2-3時間程度使っている。

そして、その75分間のクラスをいかに濃いものにするのか、それは自分のクラスへの貢献が規定する。クラスの議論の質が良くないと感じた時、浅いと感じた時、それを良い物にするかどうか、深めるかどうかは自分にかかっている。自分と同じ意見をもった他のクラスメイトが動くことも勿論ある。しかし全てがそうではないし、そうであってはならない。その感覚、意見の違いこそが自分の存在意義なのだから。他人と全く同じであるなら、周りからして自分がそこに存在する価値はない。自分の得たい学びにたどり着くためには、自分の準備と貢献が求められる。そしてその経験を通じて、自分のクラスの中でのポジションがつくられる。


そして、ケースディスカッションを楽しむ仕組みの存在とその大切さ。上記のようなケースディスカッションなので、常に張り詰めた空気の中でシリアスに議論がなされているかというとそうではない。クラス中の笑いを誘うような意見を出すクラスメイトもいれば、突き詰め考えに考え抜いた結果当たり前の事柄がすっぽり抜け落ちてしまうような“天然”の意見を口にするクラスメイトもいる。そういった発言をした人に対して何が起こるかというと、賞(?)が与えられる。背景は把握していないのだがカウ(牛)のぬいぐるみが渡される。毎週金曜日のクラス後に、月曜日からノミネートされてきた今週の面白発言がおさらいされる。それに対してクラスで投票し、翌週カウが誰のもとに置かれるのかが決められる。当人のネームプレートの横に置かれるので、教授に対しても“彼女/彼は面白いことをいったんだな”とひと目でわかる。更には、一学期であれば期末にクリスマスボールというクリスマスパーティがあり、その場でセクションを跨いだのCow of the yearが決められ、賞が与えられる。

また、教授によっては、“同じ意見を言ったら1€ペナルティ”というルールを設けられる。議論が白熱していると、そして日々の学習で疲労が蓄積していると、周りの議論を十分に追わずに自分の意見を言うケースが発生する。それを予防する効果がある。似た発言があった際には、最初の発言者へ“今の彼女/彼の意見は君と同じかい?”と確認し、同じであったらペナルティが発生する。ペナルティの判断が生徒に委ねられている。その瞬間の微妙な空気はいつでも面白い。また、その逆で教授が生徒の意見を聞いていなかったケース、もしくは教授の携帯電話がクラス中になったケース等は、教授も同様にペナルティを受ける。そのお金はぶたの貯金箱へ貯められ、外部団体へ寄付される。

こういった、シリアスな議論を重ね深めていくことだけに偏らず、それを楽しめるちょっとした工夫がなされていることは自分にとって新鮮であった。また、議論が白熱・迷走した際にこの仕組の大切さを強く感じている。

日々こうしてクラスを3つ行い、加えて月曜と金曜にはスペイン語をクラス後に3時間ずつ学習しているというわけだ。

成績のために発言するのではない / I will challenge = 頑張りますではない

今の2nd TermにはCompetitive Strategyというクラスがある。その名前の通りの内容のクラス。ポーターのポジショニング戦略をベースにしている。古典的といえば古典的な内容だ。自分のこれまでの仕事と重なるテーマが多く、自然と言いたいことも増える。
話を逸らす。経営戦略の考え方について、そもそもどういう考え方があるのかの全体像をおさえられたい場合、次の本を一読されると良いと思う。

戦略サファリ―戦略マネジメント・ガイドブック
ヘンリー ミンツバーグ (著), ジョセフ ランペル (著), ブルース アルストランド (著), Henry Mintzberg (原著), Joseph Lampel (原著), Bruce Ahlstrand (原著), 斎藤 嘉則 (翻訳), 奥沢 朋美 (翻訳), 木村 充 (翻訳), 山口 あけも (翻訳)

話を戻す。一方で、内容の抽象度の高さも手伝ってか議論であったり何かしらの意見を述べることは非常に活発だ。手を挙げてもなかなか自分にスポットがあたらない。議論で自然と流れが変わらなければぐっと方向転換をかけることもあるし、議論をより深いものにするために、当初の問いではなく誰かの意見やこれまでの議論を踏まえてどう考えるのか、と踏み込んでくることもある。
そんな中で自分の意見を言いたくて手を挙げていると、往々にして当たる直前に議論の流れが変わったり、問が変わったりする。加えて、今の自分ではまだ議論の全てを追いきる(理解しきる)ことができていない。
結果、スポットがあたった時には自分の意見がその流れとずれていたり、自分がそもそも問をとり違えていて浮いた発言をしてしまうこともある。そこで自分の認識の誤りに気づいた時に柔軟にそれを踏まえた意見に変更するだけの余裕もなかったりする。
せっかくの発言の機会をそうやって逃すのはもったいない、あまり浮いた発言をしていると当てられる確率も下がる気がする(議論を限られた時間のなかでコントロールして示唆を出さねばならない教授の立場からしたら当然)。
ということで教授に相談に行く。どうすればもっとうまくクラスの議論に貢献できるだろうかと。
教授にその話をするとすぐ幾つかのアドバイスや評価が出てくる。

・このクラスはディスカッション以外にも貢献する機会がある(プロジェクトもあるしレポートもあるし試験もある)それぞれの準備の過程でもクラスメイト、チームメイトに貢献できることは忘れないでいてね
・限られた時間のなかで、バランスよく皆のが意見を言えるようにしようと思うと、手を挙げていると分かっていても(君の席の位置からして目に入れないほうが難しい)あてられないときというのはでてきてしまう
・今も貢献していると思うよ。君が手を挙げていることは今言ったとおりわかっているし、言葉数は多くなくてもいいことを言ってくれていると思っているよ。

ひとつ目は確かにその通りだと気づいた。ふたつ目とみっつ目は考えた。
貢献できていたんだとわかったことは嬉しい。そうなるとフォーカスするのは自分の考えを限られた時間のなかでもっと議論のテーブルに並べたいということだ、人の考えに関して(限定的な理解であっても)自分のポジションを明確にとるということだ。成績の話にもなったが、成績を上げるために発言するわけではないのだ。
これまでのクラスでの学びや、先日終わった中間試験でのレポートに関しても少々議論をして時間を終えた。
クラスでもっと頑張ろうと思い、いただいたアドバイスをサマリして最後に
“I will challenge !”
と言ったら
“いや。時にはじっと黙って相手の意見に耳を傾けることも大切なんだよ”
という話になり、これ自分の英語が良くないな、と思いながら気持ちを訂正して伝えて退出した。
話の流れ上、challenge = 意見をぶつける(くってっかかる)、のようなニュアンスで伝わってしまったかと。リスニングもそうだけど、話すにしても適切な言葉を使って行きたいと強く感じた次第。

優秀だと信じろ、そして優秀であれ

クラスメイトからの依頼を受けて、今日は家の近くのスターバックスに集合してインタビューの練習。想定問答と日本語での回答づくりをしながら話し方や細かい言葉遣いの意味、コツを話した。

当然ながら上記を通じて相手のプロフィールであったり次のキャリアに対するモチベーションであったりを聴く。とても優秀。大学時代から複数カ国(その中のひとつが日本)へ留学し、各国の言葉を身につけている。学部から院へ入る際にはメジャーを大きく変更している。企業に所属して早々ローテーションプログラムに抜擢され、複数の機能であり国でありをまわり結果を出している。

そして若くしてIESEへ。

俗にいう純ドメの自分からすると素直に感心する。これがまた人間もとてもできていて、謙虚だけど自分の考えはキチンと持っている。でも無理に押し通さない。語り口は穏やかで相手への気遣いを忘れない。素直に尊敬する。

インタビューの際に、企業が問うのはPassionでありValuesであると以前書いた。そしてそれを示すものは浮ついた言葉ではなく自分の今までの経験であり結果であると書いた。

なので、どういった質問に答えるにしても、その回答から対象企業であり対象機能・ポジションでありへのPassionが滲み出るはずだ。それを支える過去を持っているはずだ。

その前提で話を聴き、質問を続ける。基本日本語、時々英語で。
多くの人が共通するのではないかと思うが、客観的でいる時ほど点と点のつながりが見えてくる。問いの意図を明確にしそれにフィットする論理構造を考えるまではできても、その構造に自分の過去を紡ぎ繋げ当てはめていく時に、客観的であるかどうかは大きく影響すると感じている。

そこを確認していく。本当はこういう意図を持っているんじゃないか。本当はこういうことが言いたいんじゃないのか。本当はこういう経験からそう思うようになったのではないか。その経験で一番のチャレンジは本当はこの点で、それを解決するためにこういうことをしてきたのではないか。

一つ一つ丁寧に確認していく。相手の新しい一面も見えてくるし、一層その相手オリジナルの、素晴らしい答えになっていくように感じる。相手の目も輝く。ひとしきり話して、内容が随分練られてきた時に、
”日本語で make sense ってどうやって言うの?”と聞かれた。

。。。なんていうんだろうか。上手い言い回しというか言葉が浮かばなかった。結局出てきたのは、”なるほど”かなという答え。多分そんな感じではないかと思う。

成功を祈りながらバイバイをして買い物&夕食に向かった。

インタビューの練習をしている時も歩きながらも思った。クラスメイトは本当に優秀な人が、世界各国から集まっているんだなと。今回は自分が日本人だからという理由でこうして相手の役に立つことができたけど、普段はどうなんだろうと。昨日書いたようにReliableだと言われていても、やはり自分のなかで”これだ”と思えるものを持っておきたいなと。

国ごとの違いや、複数可国横串で見た各国学生への期待の違いこそあれ、基本的に同じ基準に照らして選ばれたクラスメイトであり自分でありだから、何かあるはずなのだ。それは信じるべきであるし、何かあらねばならないのだ。そこは探すと同時に、わかっていない状態であっても自分が価値を出せると思った時にはその努力をせねばならないし、自分が周りと異なる主張があるときにはそれをせねばならないと思うのだ。

それに、やっぱり大切な仲間だと思ったら、役に立ちたいと思うし、お互い一層の高みに手を伸ばしたいと思うし。

何はともあれ、普段のちょっとした時間の何気ない挨拶や世間話ではなくて、こうして互いの過去であったりこれからであったりをじっくり話す時間というのはいいものだと思った。こういう話ができて、それに向けてリスクなくチャレンジできる時間というのはMBAの価値として大きいと思う。これは日本にいる時も変わらないのだけど、浅い時間を広く沢山の人と過ごすのではなくて、少なくとも密な時間を過ごせるよう仲間と付きあっていきたいと思う。

素直でReliableなやつ

1stから3rd Term、1年生は一貫して同じチームメンバーで勉強する。チームアサインメントに取り組む。全チーム個別に2nd yearの学生が1名相談役としてアサインされるのに加え、教授が1名メンターとしてアサインされる。
その教授は、恐らく各Termに2回程、1 on 1で会話する時間をつくってくれる。勿論こちらからお願いしてそれより多くの時間をもらうこともできるのだと思う。それでもこうして教授の方から定期的に声をかけてくださるというのはとても嬉しいことだ。
2nd Termが始まってまもなくにスケジュール調整の依頼のメールが来て20分程話をした。

1st Termの成績はどうだったか?(彼は把握しているので自分の期待と比べてどうだったか)
2nd Termのクラスはどうか?
Class Participationはできているか?
Termはうまくやれているか?

そんな話をランチ前にゆっくりとする。そんな中で面白かった話が2つあった。

Class Participationはできているか?この質問は前回会話をした後どうかという話だ。前回、クラスで思うように発言ができないと感じることがあるという相談をしていたので。

”1st Termと比べたらできるようになりました。でもまだ十分じゃないと思う。引き続き頑張ります”

と答えた。

”僕のしたアドバイスは役立っているかい?手を挙げながら、キーワードだけでも、自分の言いたいことをノートにメモしておくというやつ”

と言われたので正直にこたえる。

”役に立っています。確かに手を挙げながら、キーワードを書いておくとスポットライトがあたった時に自分が言いたいことを言いやすいです。でも今新たな問題にぶつかっています。キーワードを書くことに集中していると、急に当てられた時に、前の人の発言に対してどう思うか?とか質問が変わっていることがあって、そうなるとうまく対応できないことがあります。でも、前と比べたらやりやすくなっています”

教授は笑う。

”確かにそのとおりだ。手を挙げながら自分の言いたいことを書く、けどそれと同時にディスカッションも追いかけていないといけないからね。あると思う。にしてもね、初めてだよ、私のこのアドバイスを素直に聞いて、実践している学生は”

そう聞いて僕も笑った。実際に役に立つアドバイスなのでそれが本気か冗談かは問題ではない。加えて恐らく冗談ではない。僕に対しても個別に言うだけでなく、クラスで全体に対して同じことを言われていたと思うし。
自分の素直なところが面白いなと思えた。素直なところが良いところだというフィードバックはコンサルタントになってからも何度か受けたことがあった。僕は素直ではない自分も知っているので、自分が素直だと素直に思えない。でも、いいと思ったこと、納得したことはそのまま受け入れるってこれ当たり前ではないかと思う。
その辺り、自分の意識が至らない点多いのでこうして気づかされる経験というのは楽しい。確かに特段疑うこともなく、よさそうだと思ってやってみて、いいと思って続けて、新しい壁にぶつかって、としていた。

次にチームワークの話。チームはうまくやれているか?という話に対して僕は胸を張ってYesとこたえられる。本当に恵まれていると思う。ただそんな恵まれた環境にいると浮き彫りになるのが自分は存在価値を持てているのか、という点だ。そこを正直に話をした。

”うまくやれていると思います。ただ問題は自分の貢献が少ないことだと思っています。ただ、徐々にポジションがとれてきつつある感覚はあります。イシューを明確にして、ロジックを組んで、後レポートだったりプレゼンの資料をつくる質とスピードでは認められつつあって。それでもまだ不十分だと感じています。ディスカッションの中身に入るとやはりまだ内容を追い切れないときがあります”

教授は微笑みながら話してくれた。

”他のチームメンバーはね、君のことをReliableなんだと口を揃えて言っているよ。これは素晴らしいことだよ。Reliableというのは何か特定の知識があるとか、技術があるとか、そういうことで得られるものではないのだから。いざ人からReliableだと思われようとしたとして、それは簡単にできることではないよ”

嬉しかった。勿論皆人としてもチャーミングである一方で尊敬できる仲間だから言葉をうまく選んでReliableという形容にたどり着いたのかもしれない。目立ったものがないから。とは言え、嬉しかった。
自分の仕事を振り返った時も、結局自分の価値はそこにあったのかもしれないと思う。何か特定の領域で突出した知識を持っているとか、レアな技術を持っているとか、そういうことはないから。ただ、仲間にしてもクライアントの方にしても会話する中で、何がイシューなのかを考えて、仮説を考えて、どういう構造・順序でアプローチすれば検証して次に進められるか考えて、走って、走るさなか何があってもどうすれば目的を達せられるかをひたすら考えて動き続けて、で、結局なんとかする。最後の結局なんとかするというところで価値が出せてきたのだと思う。それは頭の良さとか、特定の知識や技術とは別の話になると思うが、常に切れ味抜群の分析ができずとも、筋の良い仮説を立てられずとも、知識や技術は必要最小限のものしか持ち合わせていなくても、結局なんとかする、なんとか結果を出して次に進める。
自分て今に限らずそうだったなと改めて思えて。自分でそれが強みだとは言えないのだけど。
なぜなら自分の至らなさは十分にわかっていると同時に、Reliabilityが自分のどこから生じるものなのか解明しきれていないから。相手が自分を認めてくれているそのキーワードだけに甘えるようになったらそこで自分の成長はとまり、その甘えは相手にすぐに伝わるものだと思うから。
ただ、チームにコミットする姿勢と、何とかする力、Reliabilityは認められていたというのが嬉しかった。
研鑽を続けたい。

自分のプレゼンテーションを振り返る

僕はプレゼンテーションには2種類あると捉えている。ひとつはエンターテイメント系のプレゼン、ひとつはレポート系のプレゼン。きれていないけどこんな感じではないかと思う。前者のイメージはスティーブ・ジョブズのプレゼン。後者のイメージはコンサルタントの報告会でのプレゼン。
伝えたいメッセージがあり、プレゼンの後に聴き手に起こしてもらいたいアクションがあるという点で両者は同じだ。しかし、方法は大きく異なる。
エンターテイメント系のプレゼンで必要なのは、聴衆を惹きこむ掴みであり、ダイナミックで象徴的な文字・数字・イメージであり、時に照明や音楽をも巻き込んだ演出であり、何よりそれらが織りなすひとつのストーリーだ。無味乾燥な構造・ロジック・ファクトでは訴えかけられない、伝たわったと感じてもらえないものがある。伝わらない時点でどのようなロジックもファクトも無価値だ。一切の無駄なく、紡いだストーリーを相手に伝える。
レポート系のプレゼンで必要なのは、全体の構造・ロジックであり、メッセージが十分に分解され、その各パートが定性・定量的な事実で支えられており、要するに何であるのかが一貫して明瞭になっていることだ。ダイナミックで象徴的な文字・数字・イメージだけでは何が言いたいのかわからない、相手の解釈がぶれる、照明や音楽は、全体の構造・ロジックと関係がないのであれば無価値、むしろノイズでしかない。一切の無駄なく、研ぎ澄ましたメッセージを事実とともに伝える。
結局どっちがいい悪いなんて話ではない。それは聴衆に依存するからだ。
だからプレゼンテーションをする際にまず第一に知らねばならないことは聴衆が誰かだ(プレゼンをする時点で自分が伝えたいことは明確に自覚している前提)。そこなしにプレゼンテーションはつくらないほうが良い。
という聴衆に関する前提が与えられて、テーマが設定されて、プレゼンをするというコミュニケーションのクラスがこの2nd Termにある。チームでプレゼンテーションをするのだが、その様子はビデオ撮影され、その場でも他のクラスメイトやコーチからのフィードバックが得られるが、後から自分で自分のプレゼンを見て復習することもできる。
自分のプレゼンを見ていて思うのは、レポート系プレゼンに偏っているということだ。
チームプレゼンなので持ち時間は短く、用意する資料も決して難しい話ではない。また、チームのプレゼンテーションのメッセージや資料の一貫性は自分の関心の範囲外に置いているのでそこはいい。自分のメッセージとそれを支える自分の資料と自分のパフォーマンスにフォーカスしている。
このクラスは一貫してエンターテイメント系のプレゼンテーションを是としており、そこは僕は一貫してdisagreeなのだが、それと自分に必要なプレゼンテーションの幅の話は別。
明確なメッセージとロジックはあるとして、加えてジェスチャーや声の抑揚をつけて、アイコンタクトを個々人とじっくりとって、語りかけるようにプレゼンをしているイメージでいたのだけど、全然小さい。中途半端。
もっと大げさに表現して行かないと自分の理想のプレゼンテーションには届かない。エンターテイメント系のプレゼンテーションが求められるシチュエーションになったら尚更だ。
これはとても貴重な気づきだ。その他にも客観的に自分、そして自分のチームのプレゼンテーションを見て改めて学ぶことは多い。
勿論英語がもっとできたらいいと思う。ただ、それはプレゼンテーションのできそのものを制限しない。即興的な質疑であったりが生じた際にレスポンスに時間を要するがそれでしかない。ストーリーであれロジックであれは英語力云々の前に自分のものになっているはずなのだ、プレゼンを実際に行う前に。
プレゼンテーション、磨いていきたい