初期の目的を達成できれば

実家に戻ってきて一週間。バルセロナへ持っていく荷物/送る荷物/実家に置いておく荷物の準備もほぼ終わる。今は、読み切れていない本を読み、スペイン語の勉強をし、一部クラスの予習をしながら、家族であり地元の友達との時間を過ごしている。

仕事を離れて5週間程度。充電もでき、新たなチャレンジに自分を尽くしたいという飢えも強くなっている。

これまで築いてきた環境を離れる、関係を変えることへの幾つかの感情は、仄かに、でも消えること無く自分の中にある。これまでの自分のパターンから、この感情が大きくなり、整理をつけるのは環境が変わった後だ。新しい環境に身をおいて初めて気づくこともいくらでもある。それらに整理をつけながら新しい環境に自分を馴染ませる。便利なもので全てを解釈し置き場を見つけなくとも、保留するという選択肢もあるし、なにより自分のキャパシティを超えたら無自覚に忘れるという選択肢(ではないか)もある。

新たなチャレンジを前にして、沢山の方々から激励のメッセージをいただいた。本当にありがたく拝読し、解釈をさせていただいた。その中の1つについてここに文字にして残す。尊敬するパートナー、今は事業部のエグゼクティブになられている方からの、短いが濃密なメッセージだ。

何かにチャレンジすることは良いことです。ただし、初期の目的を達成できればの話です。いつでも応援しています。

何よりその人の背中を追いかけていたからこそ、口から発せられる言葉だけでなく実際の行動を目の当たりにし、一部共にしてきたからこそ、このメッセージの重みを感じる。

”何かにチャレンジすることは良いことだ”

その通りだと思う。自分の考えるチャレンジとは、”その時の自分でできるかどうかわからないことをやってみる”ということだ。水が流れるのを止めた途端に淀み始めるように、人もチャレンジを止めた途端にその人生は淀み始めると考えている。チャレンジが大きい必要はない、社会的に目立つ必要もない、他人に讃えられる必要もない。ただ、自分が既に”できた”ことの範囲に定住しないというだけだ。

人がチャレンジする姿をみても良いことだと感じられる。赤ちゃんがハイハイするのも、立つのも、歩くのも、子供になりはじめておつかいに行くのも、全てチャレンジだ。立ち上がろうとして何度も失敗する姿、そしてようやく立ち上がれた姿、それらは人がチャレンジし、失敗を重ねてもくじけず立ち向かい、達成する一連の姿と同じだと思う。

オトナになり、できることが増え、その組み合わせで生きられる安心を知り、できないことを見つける・挑み続けられることは減るかもしれない。それだからこそ一層、チャレンジを見つけ、それをし続ける姿は良いものに感じる、眩しく感じる。そんな事しなくても生きていけるのに、と流れることをやめ、淀み、安住(ともいえないかな)している姿とは比べるよしもない。

”ただし(チャレンジを良いことと言えるのは)初期の目的を達成できればの話だ”

チャレンジは良いことだ、でもチャレンジすること自体は目的には成り得ない。という事だと受け止めている。幾つものチャレンジをし続けることを否定するものではない。ただ、チャレンジをたくさんしたい!だからチャレンジする!という話ではないだろう、その先に目指す何かがあるからこそのチャレンジ達なんだろうという話だ。そしてそれはチャレンジを始めた時点で、内容も粒度も違うかもしれないけど、自分の中に目的として持っていたものなのだろう、それを忘れるな、必達だと。

この言葉が自分に響くのは自分とそのパートナーの特徴のコントラストが強いからだ。

自分は、良く言えばプロセスを楽しむのが得意で柔軟。悪く言えば初期の目的を忘れやすい。

パートナーは、目的達成に必要な戦略と行動を描き最短距離を走る。行動のフィードバックから次の行動・必要に応じて戦略を変える。どのような形であれ目的は達成する / 次につなげる。

タイプの違う人からの言葉というのはとてもありがたいものだ。そして僕は、このパートナーが実際に初期の目的を、不測の事態に陥ろうが何だろうが、達成させようとする姿、する姿を見ている。そうした、行動に裏付けられたメッセージというのは重い。そしてこうした行動を共にした方からのメッセージは、自分に、単に言葉としての意味ならず、その背景にある行動様式も想起させてくれる。

今回の自分のチャレンジにも勿論目的がある。本格的にチャレンジを始めるまえにupdateして、達成したい。

”いつでも応援している”

素直に嬉しい :D こういった言葉は大事だ。実際に1日24時間応援してくれているのか?という話ではなくて、そういう”気持ち”であり、固く言えば”覚悟”でメッセージを送っているということが大事なのだ。

チャレンジをし続ける上で無くしてはならないもの、それはチャレンジしようと思い続ける意志だ。

既に書いたようにチャレンジ自体が目的ではない。その先を見据える”志”がある。それはチャレンジしようと思い続けることを支える強い味方だ。しかし人はそんなに強くない。少なくとも今の僕は強くない。チャレンジがうまく行かなかったら、(目的達成の手段なのだから変えればいいだけのはずなのに)気落ちしてしまうこともあるだろうし、自分の志さえ強く持てなくなってしまうこともあると思う。一度の失敗ならまだしも何度も失敗を重ねたら。

少しでも”いけそう!”という感覚をつかめたら、他のすべての部分で失敗してもまた立ち上がって前に進められる。いけそう!という感覚が自分の意志を強くするからだ。

そうでないとき、他者からの支えというのは、自分の意志を強める素晴らしいエネルギーになる。人間弱っているときというのは、少しの支えであってもそこから大きなエネルギーを得られるよう、感度が高まっている(だから普段なら ? と思うことにも騙されたりもするのだが)。だからほんの一言であっても素晴らしい支えになるのだ。

なので、メールの最後にひと言添えられた”いつでも応援している”という言葉であったり、”自分のできることは全てする。何かあったらいつでも言ってくれ”というような言葉は、その厳密な実現可能性とは関係なく、本当に嬉しいものであり素晴らしいものなのだ。

短いひと言からも、自分の価値観を改めて認識し、足りない部分を知り、自分のチャレンジへのエネルギーをもらえる。こうしたつながりというのはかけがえの無いものであるし、大切にしていきたいと強く思う。

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