Noと言うことが自分に自由を取り戻してくれる

自分の人生に責任を負えるのは自分しかいない。これは当たり前にして大切なことだと思う。
なのだけど日常の中で自分の中に違和感を抱えながらもつい引き受けてしまうことは多い。
どうせ最後に責任を負うのは自分だし、と大切なだったはずのことはいつの間にか自分を慰める、自分が現実を受け容れるための理由の1つに成り下がっていたりする。
気がつけば責任しか負っていないように感じられるようになっていたりする。責任は負っている、でも自分の人生を自分の思い通りにする自由は与えられていないと。
自由にする / しないも含めて自分の責任だと分かっているはずなのに。
そんなときは、どんなささいな事でも(勿論大きいことでも)、何んでもいいから今まで受け容れていたものに対してNoをつきつけてみるといい。
これまでと違った反応が返ってくるかもしれないし、実は自分のYes/Noにかかわらず相手は同じ反応を返すかもしれない。
ただ、上記のプロセス -自己がなんとなくで受け容れているものを探し、それに対してNoを言うと決め、実際にNoといい、(これは自動的にかな)その結果を得る- に意味がある。
なんとなくで物事を受け容れているうちに、いつの間にか自分には意志がない、Noという力がない、Noと言ってはいけない(これまで受け容れることで得てきた結果と違う、未知の結果を受け容れなくてはならなくなる可能性があるから)等々の自分が勝手に植えつけていた自分のイメージ、もしくはそんなイメージを作っていることにさえ意識できていなかった自分を変えることができる。
自分の人生、全部が全部自分の自由になるわけじゃない。
自分が望む結果じゃなくても受け容れないといけない時もある。
その結果がでるのに自分以外の力が大きく働いていることもある。
でも、そんな自己でどうしようもないことって、てこれまで生きてきた中で経験してきたような量あるんだろうか。
本当は自分が影響を与えられた結果ってもっとたくさんあるし、本当は自分でどうしようもない結果ってもっと少ないんじゃないだろうか。
自分で自分の人生に影響力を行使できるってことを実感するという意味で、自分を自由にできるんだと実感するという意味で、何か今まで流されていたものにNoをつきつけるというのはとっても意味があると思う。

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