仮説を持て。仮説を手放せ。

”メッセージって、調査の結果自然と浮かび上がってくるものだと思うんだよなあ”
というあるコンサルタントの言葉に違和感を覚える。そうではないだろうと。
メッセージは調査の前に自分の中にあるんだろう。それが実際にメッセージとして主張できるかいなかを検証するのが調査だろう。それが仮説検証というものだろう。時間含めてリソース度返しで考えたら、調査だけなら誰でもできる、そしてそれなりに筋のいいメッセージを紡ぎ出せるだろう。
持っている仮説と、それを検証する精度とスピードこそが価値ではなかったか(勿論テーマによるのだが)。
それをメッセージは調査の結果自然に浮かび上がってくるといいながら、ただひたすら情報を集めてメッセージがでないとぼやくのはただの怠慢だろう。能力不足だろう。メンタリティからしてもケイパビリティからしてもコンサルタントではないだろう。
恥を知れ。
でと。
一方で仮説を検証するとなったときに調査して得られるいくつもの情報について、その1つの仮説の検証という目的のみで眺め、そうでなければ捨ててしまうというのもまた違う。仮説検証の過程で、それに使えなかった情報も含めて、自分の中に蓄積した情報は、新たな仮説の筋を良くするための材料になる。
勿論仮説検証に絞ってひたすら情報を切り捨てていっても、切り捨てた情報であっても頭の中にはある程度残ってしまうものだし、ある日突然新たな仮説の発露を促すものになっているのだと思うが。
仮説は立てる(その仮説が検証されたとしたときのメッセージに価値がなければ仮説を見直す必要がある。検証する価値があるのかと。)、でも情報に触れるときのアンテナはその検証のみに絞り込まない。
このスタンスで情報に触れるのが良いと思うし、実際にそうしている人が多いのではないだろうか。思考法によらず、限られた時間・リソースの中で結果をだすことさえできればまずはよしだと思うが。