問題は、躁なんです

問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ
春日 武彦 (著)
出張の時から思っていたのだが、飛行機の中だと読書がはかどる。障害物が少なく、外を見ればリラックスできる空が広がっている、そんなところからだろうか。沖縄に行く際にも何冊か本をバッグに詰め込んで出かけた。その中の一冊。
心の風邪といわれるうつに対して、著者は躁を心の脱臼と表現している。
きちんと整復しない限り脱臼した関節は糸の切れた操り人形のように途方もない動きを示す、また脱臼はしばしば繰り返される。そういった特徴が躁と重なるようだ。
自分も含めて、人間の心のありようというものはしっかりと理解したいと思う。

P.40
他方、後者(世の中に迎合した表面的な価値観)のみにシフトした人たちは、まことに薄っぺらに見える。彼らの生き方は、世渡りとしては正しい。けれども、その正しさはあまりにも「分かりやす過ぎる」。そこには主体性が感じられない。正論の退屈さをそのまま体現したイメージがある。そのような人は信用しかねる。いつ本音に目覚めてレールから外れてしまうか分からないような危うさすらある。

P.42
おしなべて心がシンプルに過ぎる人物と接した時に、我々は頭の片隅でその人に違和感を覚えるものである。複雑すぎる精神の持ち主も面倒だが、あまりに単純な精神に対してはむしろ何かの欠落を直感してしまう。

P.43
光はあっても影のない世界、騒がしく休むことを知らない世界が躁病の世界である。シンプルではあっても深みを欠き、分かりやすいが卑俗であり、慎み深いことと腰抜けであることとの違いを見分けられないような大味な世界なのである。

P.147
おそらく人間は、ほぼ完璧なうつにはなれるにもかかわらず、自分の心を躁のみで塗り上げ誇大妄想にどっぷりと浸り切ることは困難なような気がしてならない。そういった意味でもうつと躁は対称をなさない。うつが自然で躁が不自然、これが人の心の基本的な構図であるように思われる。嫌な話ではあるけれど。

P.156
さて躁状態といったものを考える時、わたしは当人があたかも群集心理によって突き動かされているように感じることがある。その無責任さ、無鉄砲で攻撃的、興味本位の優先と醜悪な欲望の開放、残酷さと不寛容、そういった性質が本来の「その人らしさ」を覆い尽くしてしまう。
(中略)そのいっぽう、躁的ないしは躁状態の人物は、一見したところは関心に惹かれるが、たちまち飽きてしまう(あるいは辟易してしまう)。カラフルなようでいて実はモノトーン、奥行きを欠き、ためらいが欠落しているがためにニュアンスがない。ただし突飛で奇想天外、自分でも非常識さを誇っている気配がある。

始動

次のエンゲージメントにむけて徐々に動き始める。
クライアントとスコープや目的の話をしながらアプローチを固めていく。
今回は短期決戦。海外のメンバーも関与する。
最大限の価値につながる楽しさとタフさを経験したいと思う。
そして、ひとつひとつのエンゲージメントにおける価値のみならず、コンサルタントとしての自分の存在意義、その道を進み続ける意図もしっかり自覚できるようにしておきたいと思う。
最初で最後のこの自分としての人生。自分の手綱を自分で握れているのかどうか、正しく認識してアクションを起こしていく必要があると思うから。