写真の撮り方手帖

写真の撮り方手帖 ~たいせつなもの、撮ろう~
繁延 あづさ (著)
#今見てみると”在庫切れ”になっている・・・。
色々な写真に触れたい。自分らしさを表現できる写真を撮りたい。
ノウハウが詳細に詰まった本はまだ今の自分には必要ないと思うので、それよりは新しい作品やその作品に至った作成者の意図だったりが書かれている本を読みたいなーと思っていて手にした一冊。
技術的なことはかなりコンパクトにまとめられており、後は実際にとった写真(食べ物・生物・植物・工場等いくつかのカテゴリに別れている)に簡単なメッセージが添えられているだけ。加えて写真家の方や写真を好きなモデル・芸能人の方との対談が入っている。
素晴らしい作品と、その意図、人それぞれの写真との関係を綴った、全体にゆったりとした一冊だった。
今度は時間をつくって、写真展でも見に行きたいと思う。

デザインのデザイン

デザインのデザイン
原 研哉 (著)
以前、仕事の中でメッセージをうまく支えるためのデザインを学びたくて”ノンデザイナーズ・デザインブック Second Edition”を手にした(当時のエントリー)。これと、写真が好きなことが手伝ってデザインというものについて興味を強くし、この本を手にしていた(my mixiの方からの推薦もあった)。
でも読み始めるのに半年を要しているので、もしかしたら興味のレベルもそこまでだったのかもしれない。
が、ようやく読み始めることができた。
読み終わると自分の内側には、新しい世界が目の前に開けたことによる清涼感のようなものが宿っていた。
本のはじめの言葉が印象的でそれに惹かれた勢いでそのまま読み終えた。

何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することに繋がる。たとえば、ここにコップがあるとしよう。あなたはこのコップについて分かっているかもしれない。しかしひとたび「コップをデザインしてください」と言われたらどうだろう。デザインすべき対象としてコップがあなたに示されたとたん、どんなコップにしようかと、あなたはコップについて少し分からなくなる。さらにコップから皿まで、微妙に深さの異なるガラスの容れ物が何十もあなたの目の前に一列に並べられる。グラデーションをなすその容器の中で、どこからがコップでどこからが皿であるか、その境界線を示すように言われたらどうだろうか。
(中略)
コップについて分からなくなったあなたは、以前よりコップに対する認識が後退したわけではない。むしろその逆である。何も意識しないでそれをただコップと呼んでいたときよりも、いっそう注意深くそれについて考えるようになった。よりリアルにコップを感じ取ることができるようになった。

リ・デザイン、長野オリンピック、無印良品、松屋銀座リニューアル等、数々のプロジェクトに込められた意図。そのプロジェクトの中での著者をはじめとしたデザイナーそれぞれの意図とそれを体現するデザイン。デザインという視点での市場・人の感性教育への示唆。そして”あったかもしれない”もうひとつの万博のストーリー。
それぞれの中に、日常では気づききれていなかった素晴らしい意図の存在、デザインという分野の奥深さが感じられるエピソードや著者の思考がちりばめられている。
デザインを通じたコミュニケーション。もっと深く知りたいと感じた。
印象に残った言葉は枚挙に暇がないがそれを自分の解釈・言葉にはまだうまく置き換えられない。こういった自分にとって新しい分野で受ける感覚と言葉を、これから先結びつけていきたいと思う。

新奇なものをつくり出すだけが創造性ではない。見慣れたものを未知なるものとして再発見できる感性も同じく創造性である。

(賃金格差を利用したグローバリゼーションに関する文脈の中で)本来は問題となるべき経済格差をむしろ前提条件とみなしてそこに利益を生む構造を持ち込もうとする。おそらく未来においては糾弾されるであろう不平等な時代・社会の中に僕らは今生きている。

問題はいかにマーケティングを精密に行うかということではない。その企業がフランチャイズとしている市場の欲望の水準をいかに高水準に保つかということを同時に認識し、ここに戦略を持たないと、グローバルにみてその企業の商品が優位に展開することはない。
(中略)
マーケティングを行う上で市場は「畑」である。個の畑が宝物だと僕は思う。畑の土壌を調べ、生育しやすい品種を改良して植えるのではなく、素晴らしい収穫物を得られる畑になるように「土壌」を肥やしていくことがマーケティングのもうひとつの方法であろう。「欲望のエデュケーション」とはそういうことである。

日本人は常に自身を世界の辺境に置き、永久に洗練されない田舎者としての自己を心のどこかに自覚しているようなところがある。
(中略)
自己を世界の中心と考えず、謙虚なポジションに据えようとする意識はそのままでいいのではないか。むしろ辺境に置くことで可能になるつつしみをともなった世界観。グローバルとはむしろそういう視点から捉えるべきではないだろうか。

未来のヴィジョンに関与する立場にある人は「にぎわい」を計画するという発想をそろそろやめた方がいい。「町おこし」などという言葉がかつて言い交わされたことがあるがそういうことで「おこされた」町は無残である。町はおこされておきるものではない。その魅力はひとえにそのたたずまいである。おこすのではなく、むしろ静けさと成熟に本気で向き合い、それが成就した後にも「情報発信」などしないで、それを森の奥や湯気の向こうにひっそりと置いておけばいい。優れたものは必ず発見される。

「核反対」とか「戦争反対」とかいうような何かを反対するメッセージをつくることに僕は興味がない。デザインは何かを計画していく局面で機能するものであるからだ。