突然

GW1日目。突然両親が上京するとのこと。
幸い特別予定は入れていなかったので今日はまず夕食を共にする。行った先はどれ味。おいしいしスタッフの方も明るくパフォーマンスも面白い。何度か行って気に入っているお店だ。
急な話だったので特に何も考えずにお店を選んだのだが、母親は東京に来る前に、もんじゃ焼きとかお好み焼きが食べたいと父親と話していたとのこと。
”なんか最近願ったことがどんどんかなっちゃうわ~♪”
と言っていた母親が印象的だった。
(きっと当たり前のはずなのに改めて気づく)身近なところに学ぶべき人がいるのだと。
明日は用事を済ませて両親と共に帰郷予定。今年のGWは短いけど地元では昔からの友達との遊びもアレンジしている。濃いGWを過ごせそうだ。

償い

償い
矢口 敦子 (著)
最近出張が多く、移動時間はだいたい仕事をするか、本を読むか、眠るかしているのだけど、読書にあてられる時間と持っていく本の内容の量・質を見誤ると帰りに読む本が無くなってしまったりする。
そんな時、駅の小さい書店で手にした一冊。
素直に言うと、世界に浸りきることができなかった。
これまでそんなに小説を多く読んでいないのだけど、頭の中で無意識に比較していたのは海堂尊さんの書籍、著名なもので言えばチーム・バチスタの栄光だと思う。
なんでだろうと少し考えてみた。
どうも登場人物の像が曖昧なのだ。
元外科医師のホームレス、刑事、思慮深い青年、青年の友達、精神を病んだ青年の母、青年宅の向かいの夫婦、ホームレス数人、元外科医師のホームレスの元同僚etc…
登場人物は大体頭の中に入っているし、ストーリーも頭の中に入っているが、どうもそれぞれの性格や抱えているものを具体的に理解させるような記述、具体的に理解できずとも何かあると感じさせる、思索をめぐらせるきっかけになるような記述が不足しているように感じた(物足りなく感じた)。
小説を読みなれていない自分に想像力が欠如していたのではないだろうか。
上記を書いていて感じたのだけど、海堂さんの著作は、登場人物の像が明確で分かりやすく(キャラ立ちしていて)、記述も具体的だ。登場人物の価値観であり動機付けでありが理解でき、なぜその価値観その動機付けに至ったのかという過去にも十分に触れられ、そこにおいても今とは違う形で登場人物が絡み合っているという面白みもある。それらが興味を引き、おそらく自分はその世界にはいりこんでいく。
おそらく今の自分の中ではそれら=小説となっていたために違う定義の小説を楽しむ想像力が欠如していたのかもしれない(いや、小学校の時とか何百冊も小説含めて読んでいたような。。そららとも違ったというわけだ)。
今のところ上記のような感覚だけど、様々な小説を読んでいく中でわかるのだろう。
それぞれの楽しみ方が。

背負うもの


背負うものの大きさが、その人の志の高さ、それに対するコミットメントの強さを決めるのかな、なんてことを感じた。今日は夜は友達と食事に行った。彼は大学を卒業してコンサルティングファームへ入り、その後独立をしている。個人事業主として自分の志に従い、従う結果を一身に背負っている。
話をしていて感じるのは、アンテナの高さの違い / 情報を自分のおかれている環境でどう活かせるか・発想の具体性の違い / 当たり前のように自分の意志に従う強さ等。
そんな彼を目の当たりにして、改めて自分の存在意義を考える。存在意義なんていうとカタいけど、要は自分の人生に対するこだわりのことだ。世界にひとりしかいない自分。一度しかない人生。
そこにこだわらずに日々を費やすことがいかに怠慢なことか。
そこにこだわらずにone of themのままにいることがいかにもったいないことか。
そこにこだわらずにただ世間のものさしでの上を目指すことがいかに寂しいことか。
自分へのこだわりを、こだわろうという意志を捨ててはいけない。
こだわりを見つけるために今その時の行動を後回しにしてはいけない。
こだわりを見つけようとする一方で、見つからずとも自分は何があっても自分だということを忘れてはいけない。
こだわるだけでそのこだわりを現実のものにするために何かを背負うことから逃げてはいけない。
こだわるだけでそれを実現できない理由を今背負っているものに求めてはいけない。
(これだけ”いけない”と書くと窮屈に感じるところもあります。楽観も大切です)
人に恵まれているなあ、とつくづく思う。
#写真はいつもとは違うオフィスからの風景。こうしてみると曇天もまたをかし。