気がつけば舞台に

新しいプロジェクトが始まろうとしている。
参画を依頼されてインターナルの最初のミーティングにでる。
ミーティングが終わる。すると自分が提案書作成リードになっている。
提案書を書いてみる。すると自分が提案に行くことになっている。プロジェクトの計画も自分。
実質全部自分でやることになりそうな気配。
やるならやる。
今回のプロジェクトはステークホルダーが多い。
頭の中でマッピングしながら聞く・話す。
相手によって期待値が違う。プロジェクトに対する温度も違う。
私に対する接し方も違う。それはそうだ。私のマッピングも彼らそれぞれによって違うだろうから。
とても丁寧に接して情報を提供してくれる人もいる。
明確に自分の守備範囲を守ろうとする人もいる。
自分のやり方でつきすすもうとする人もいる。
どの角度から見るか、どこからどういうライトをあてるかで私のイメージは異なっていたりする。
なるほどこういうときにこそステークホルダーマネジメントなのか。なんてしみじみ思ったりする。
気が付けば舞台に立っていることがあり、
気が付けば様々な角度からライトをあてられていたりする。
それでもその舞台で踊るかどうか。踊るならどう踊るか。ライトを避けるかどうか。あたるならどう映り込むか。
それは自分で選択することだ。
自分らしく行きたい。
#こうしてたとえて考えると、舞台監督になることが想像しにくい。例えが下手だったかな。

メリハリ

生活にメリハリをつけ始めた。何のことはない、2つのルールに従うだけなのだけ。
1つはPCを仕事につなぐ/つながない時間を明確に決めてそれに従う。
1つは上記のPCを仕事につなぐ時間の使い方を明確に決めてそれに従う。
当たり前だなあと思うと同時に、知っているということとできるということはこうも違うことなのかと感じる。
そしてやってみると頭が軽くなることに気づく。
PCを仕事につないでいなくても自分がつながってることは往々にしてあるが、それにしても頭が軽い。
これまで無意識のうちに仕事=手元にPCという考え方をしていたけどそれは適切ではないのかもしれない。もしくはPCを開くことにマンネリ感を覚えてしまっているのか。
なぜならPCを閉じていた方が上記の通り頭が軽くなって色々と思索を巡らせられる自分がいるし、それはPCを閉じるだけでそれを非日常と感じてリラックスしてしまうような状態にあったのかもしれないから。
目的を遂げるための手段。今一度幅広く捉えたい。

解釈の土台

2008.3.31号の日経ビジネスの中で、ダイドーリミテッド会長の羽鳥嘉彌氏は語っている。

アンドレ・ジッドの小説にあるような「狭き門」を突破できた企業だけが残っていく。(中略)では、どう突破すればいいのか。ヤマ勘ではいけないわけです。自分たちにやがて降りかかってくる環境の変化を自分で読み取らなければいけない。それには歴史の認識しかないように思うんです。過去の延長線上に将来というものが見えてくるわけですから、未来を読み取るためには、過去に対する深い認識がないといけない。

ダイドーリミテッドは創業130年、自分たちの居場所を変えながらここまできた。成功体験が少ないが故に、環境の変化に割合適応して、己を変えてこられたと氏は言っている。

この内容がとても印象深かった。簡単に言ってしまえば”歴史を理解することは大事だ”と。

こう言ってしまうとあまりに当たり前に聞こえてしまうのだがこれはとても大切だ。

歴史のように、事実であり、人間模様もありありと描かれており、(当たり前だが)非常に長い期間にわたって描かれているものを理解し自分の頭の中に持っておくことは、人の話であり文章でありをインプットする時の解釈を助けると思うからだ。

コンサルタントは論理的に物事を考えられる人だ(程度の差こそあれ)。マナーの一部のように論理的に考えることを身につける。(・・・このブログは論理的ではないが(^^;))

だからたいていの人は自分が知らない分野でも論理的に質問を考え出すことができる(考えることができることと相手が答えやすいように、必要な情報が得られるように実際に問いかけるのができることの間には大きな大きな隔たりがある)。

でも一方で、(特にエントリーレベルのコンサルタントを見ていると)人の話を解釈できない人が多いように感じる。論理構造にのっとって整理はできても、論理の矛盾や足りない情報を見つけることができても、1つ1つの話の奥にある相手のメッセージでありそのメッセージを発する理由を見出すことができないのだ。

文章で言うなら行間が読めないというのだろうか。(そもそも行間を読む必要がある文章が悪いと考えもあるのかもしれないが良い悪いと事実どうあるかは別だ。そして良し悪しはケースバイケースだ。)

そういった解釈できないという現象の裏には、経験であり教養でありの不足があるのではないかとふと思ったわけだ。

でその教養の中で歴史を理解するということは大きいと。

歴史をはじめ、人としての教養をそなえるための自分磨きもしていきたいと思う。